孝成王 趙丹は古代中国の春秋時代。趙の国の王です。
名前は 趙丹(ちょう たん)。
趙は春秋戦国時代に覇権を争った「戦国七雄」といわれる七つの国のひとつ。
急激に力をつけてきた秦との戦いに敗北。趙の衰退を早めてしまいます。
史実の孝成王はどんな人物だったのか紹介します。
孝成王の史実
プロフィール
称号:孝成王(こうせいおう)
地位:趙の国王
生年:不明
没年:紀元前245年
在位:紀元前265~紀元前245年
日本では弥生時代になります。
家族
おいたち
生年は不明。
父は恵文王(けいぶんおう)。
母は趙威后(ちょういごう)
紀元前265年。恵文王が死去。息子の趙丹(ちょう たん)が趙王になりました。
強い軍団を作った祖父・武霊王、安定した時代を作った父・恵文王の時代は趙の力が強く、秦とも互角に戦っていました。
父・恵文王は祖父・武霊王ほど戦は上手ではありません。でも廉頗(れん ぱ)と藺相如(りん しょうじょ)という有能な将軍がいたので秦の攻撃を防いでいました。
藺相如(りん しょうじょ)は病で戦に出られなくなりました。廉頗(れん ぱ)も高齢になりました。
秦は名将の白起(はくき)のもと韓・魏・趙・楚へと攻め込み次々と領土を広げていました。
孝成王は積極的に戦っても利益はないと考え、守りに徹していました。
長平の戦い
韓は秦に領土の一部を奪われ領地が分断されてしまいました。そこで韓の上党郡の人々は趙に領地を差し出す代わりに保護を求めてきました。
孝成王は伯父の平原君と平陽君に意見を聞きました。平陽君は「秦と戦争になるので断ったほうがいい」と言いましたが、平原君は「領地が手に入るのだから受け入れるべき」と言いました。
孝成王は平原君の意見を採用して上党郡を趙の領土にしました。
紀元前260年。秦の昭襄王は怒って上党郡に攻め込みました。秦の勢いは止まらず趙の長平も攻め込まれました。
孝成王は老将・廉頗を総大将にして45万の大軍を派遣しました。長平に到着した廉頗は秦と小競り合いを行いましたが敗退。そこで守りに徹して秦の疲労を待つことにしました。
持久戦は2年に及びました。廉頗の目論見通り、秦の兵士達には疲労と焦りがではじめてきました。そこで秦は「秦は趙括が趙軍の指揮を取ることを恐れている。老人の廉頗であれば対処しやすい」という情報を流しました。
一方の、孝成王はなかなか戦おうとしない廉頗に不満を感じていました。そこに秦の噂を聞いて老将の廉頗を解任して趙括(ちょうかつ)を総大将に任命しました。
趙括は名将・趙奢の息子ですが、趙括自身は実績はあまりありません。病気の藺相如は「経験の少ない趙括の採用を思いとどまるように孝成王に進言しました。しかし孝成王は却下。趙括を総大将にしました。
趙括は総大将になると秦に総攻撃をかけました。しかし白起の戦術にはまって敗退します。趙軍は数十万の兵を失う大敗北でした。趙括も戦死します。歴史書では40万の兵が生き埋めになったと書かれていますが、発掘の結果では戦闘での負傷が原因で死んた兵士が多かったようです。数についても40万は多すぎるようです。
いずれにしても趙は大勢の兵を失って国が衰退していきます。
しかし秦の側でも内輪もめがあって秦軍は途中で進軍を止めてました。趙は助かりました。
文化の先進国
戦いに敗北して多くの兵力を失った趙でしたが。文化面では当時の先進国でした。趙には各地から学者や文人たちが集まりました。孝成王は儒家の荀子や兵家の臨武君まねいて論戦をおこなわせるなど。積極的に人材を採用します。
孝成王は軍事的な才能はなくとも文化的な面では理解があったようです。
衰退の始まる趙
紀元前251年。趙が衰退したと判断した燕に攻められます。しかし廉頗らの活躍で防ぎました。逆に廉頗は燕の都・薊を包囲。5つの城を趙に渡すことを条件に和睦しました。
孝成王は長年の廉頗の功績を讃え「信平君」の称号を与えました。
紀元前245年。宰相の信平君・廉頗に魏の繁陽を攻めさせ、占領しました。
戦の最中に孝成王が死去。
息子の趙偃(悼襄王(とうじょうおう)があとを継ぎました。
悼襄王も臣下たちとうまくいかず趙はさらに衰退。
秦に滅ぼされます。
まとめ:戦乱の時代には向いていない王
祖父・武霊王は戦がうまく趙の全盛期を作りました。父・恵文王は優秀な臣下をうまく使って他国の攻撃を防いで安定した時代を作りました。
孝成王は祖父や父に比べると孝成王は個人の素質や判断力に欠ける部分があったようです。
しかし学問には力を入れました。趙は軍事力では秦に負けていましたが、各地から学者や文人が集まる国でした。孝成王は戦乱の時代を生き抜くには向いていない人物だったようです。
孝成王の時代に国力を衰退させた趙は紀元前228年に秦に滅ぼされます。趙を滅ぼしたのは趙で人質生活をおくっていた嬴異人の子・嬴政(始皇帝)でした。
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