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純懿皇貴妃 耿氏(裕太妃)・弘昼の母は96歳まで生きて皇太后扱いされた

純懿皇貴妃 耿氏(裕太妃) 1.2 清の皇后妃嬪皇太后

 

純懿皇貴妃は清朝の第代皇帝・雍正ようせいていの側室。

「瓔珞<エイラク>」では裕太妃として登場します。

和親王・弘昼の生母です。

ドラマでは善人を装いならが裏で悪事を働く黒幕敵存在と描かれることもあります。

歴史上は実の子の弘昼だけでなく、雍正帝や乾隆帝からも大切にされた人です。

歴史上の純懿皇貴妃は96歳まで生きました。当時としては驚くほどの長寿です。

史実の純懿皇貴妃 はどんな人物だったのか紹介します。

 

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純懿皇貴妃  耿氏(裕太妃)の史実

どんな人?

姓:耿(日本語:こう、満州語:ゲン)氏
称号: 純懿皇貴妃(じゅんいこうきひ)
地位:  格格→裕嬪→裕妃→皇考裕貴太妃→皇考裕皇貴太妃→純懿皇貴妃
生年月日:1689年12月14日
没年月日:1784年3月8日
享年 95

彼女が生きたのは清王朝の第4代皇帝・康煕帝~6代・乾隆帝の時代です。

日本では江戸時代になります。

家族

父:耿徳金
母:不明
夫:雍正帝(ようせいてい)
子供:和恭親王弘昼

 

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純懿皇貴妃 の生涯

おいたち

1689年(康熙28年)に生まれました。

1703年(康熙42年)。雍王・胤禛いんしん(第四皇子・後の雍正帝)の屋敷に入り格格(側室)になりました。雍王よりも11歳若いです。

1712年(康熙51年)。息子の弘昼が生まれました。

雍正帝の時代

1723年(雍正元年)。康熙帝が死去。雍正帝が即位。

耿氏は裕嬪になり、1730年(雍正8年)には裕妃に昇格しました。

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息子の弘昼が後継者争いから脱落した理由

雍正帝は皇太子を正式に決めることはしませんでしたが、心の中ではすでに誰を次の皇帝にするか決めていました。

最も有力視されていたのは賢明で才能のある第四皇子・弘暦でした。

宮中の人々も弘暦が次の皇帝になるだろうとほぼ確信していました。

一方、弘昼は弘暦のような才能や野心はなく、僧侶や道士と交流し、仏教に関心を抱く穏やかな人物でした。彼は皇位継承争いに巻き込まれるような野心的な行動は決してしませんでした。

雍正帝はそんな弘昼を可愛がっていました。 弘暦のような才能溢れる息子がいる一方で、穏やかで争いを好まない弘昼の存在も雍正帝にとっては心の支えになっていたかもしれません。

弘昼が後継者争いから脱落した主な理由は、以下の点が挙げられます。

  • 弘暦の才能と人気: 弘暦は賢明で才能があり、多くの人々から支持されていました。
  • 弘昼の穏やかな性格: 弘昼は権力争いに興味がなく、穏やかな性格でした。
  • 雍正帝の判断: 雍正帝はすでに後継者を内定しており、弘昼にはその座を与えるつもりはありませんでした。

そのため弘昼は皇位継承争いから自然と脱落していきました。でも雍正帝は二人の息子をそれぞれ違った形で愛していたと言えるかもしれません。

もう少し詳しく説明すると

弘昼は皇位継承争いという激しい競争の中で生き抜く能力を持っていませんでした。彼は争いごとを避け、平和な日々を過ごすのを望んでいたのです。そのため積極的に皇位を狙おうとするような行動は一切起こしませんでした。

雍正帝も弘昼の性格をよく理解していました。弘昼を厳しく叱るのではなく、彼の穏やかな性格を尊重して自由にさせてあげたのです。

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裕妃の巧みな処世術:後宮で生き抜く知恵

裕妃・耿氏は、権力も後ろ盾もない身で後宮という厳しい世界に身を置いていました。そこで彼女は、誰とも敵対せず、有力な人物と良好な関係を築くという選択をしました。

熹貴妃との絆

後の乾隆帝の生母に熹貴妃とは姉妹のように仲の良い関係を築きました。後宮で生き残るためには非常に賢い判断だったといえます。

熹貴妃の息子・弘暦は父から可愛がられていましたし周囲の人から見ても優秀な皇子。将来の皇帝と思う人も多かったのです。

そんな皇子の母になる人物と仲良くしておけば、将来弘暦が皇帝になったとき裕妃と彼女の息子も安定した地位を築くことができるからです。

雍正帝との関係

裕妃は雍正帝とも良好な関係を築きました。

雍正帝は多忙な日々を送っていましたが、裕妃との酒宴の時間は彼にとって貴重な息抜きになったようです。

裕妃の気さくで明るい性格は雍正帝の心を癒し、二人の関係を深めることにつながったのでしょう。

息子・弘昼への影響

裕妃は息子の弘昼が雍正帝に気に入られていることを心の底から喜んでいました。

裕妃自身の地位を安定させるだけでなく、弘昼の将来にとっても大きなプラスになりました。

 

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乾隆帝の時代:息子の安全を第一に考える

1735年(雍正13年)。雍正帝が死去。熹貴妃・鈕祜禄(ニオフル)氏が生んだ弘暦が皇帝(乾隆帝)になりました。

乾隆帝が即位したとき、耿氏は大きな不安を抱えていました。

かつて康煕帝の時代に皇位継承を巡る激しい争いが起こり、多くの皇子たちが命を落とした「九子奪嫡」という悲劇があったからです。雍正帝も即位後、兄弟たちを粛清した歴史がありました。

耿氏は乾隆帝もまた兄弟を粛清するのではないかと恐れました。

建国者 ヌルハチが「君主は兄弟を殺してはならない」と遺言を残していたにも関わらず、多くの皇帝たちがその教えを守らなかったことを、彼女はよく知っていたのです。

乾隆帝は当初、弘昼に役職を与え優遇しているように見えました。しかし、耿氏は安心できません。いつ状況が変わるか分からなかったからです。

そこで彼女は、弘昼にこう教えました。

「皇帝に疑われるようなことをしてはいけない。そうすれば、無事に生き延びることができる。」

その後、廃太子 胤礽の息子である弘晳が謀反の罪に問われ、厳しい処分を受けた事件が起こりました。この事件をきっかけに弘昼はますます奇行が目立つようになりました。乾隆帝は最初は弘昼を叱りましたが、やがて彼を自由にさせてしまうのです。

耿氏は弘昼の行動に心を痛めながらも、彼を止めようとはしませんでした。そして皇太后・鈕祜禄氏に仕え、乾隆帝に気に入られるよう努めました。

おそらく、皇太后から何かアドバイスを受けたか、あるいは乾隆帝の心境に変化があったのでしょう。乾隆帝は弘昼に多くの金銭を与え、自由に暮らせるようにしました。

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息子を失った母と母を失った息子

一人息子の弘昼を失う

1770年。裕太妃の唯一の息子 和恭親王 弘昼が亡くなりました。

愛する息子の死は裕太妃にとって大きな悲しみだったでしょう。しかし、裕太妃は悲嘆に暮れることなく乾隆帝の側で賢く振る舞いました。

そして1777年。乾隆帝の生母 孝聖憲皇后が亡くなります。

母を亡くした乾隆帝は、高齢の裕太妃に母の面影を重ねるようになりました。裕太妃は乾隆帝にとって亡き母のような存在となっていったのです。

皇太后としての地位と敬意

乾隆帝は裕太妃の献身的な態度を高く評価し、1778年に彼女に「皇考裕皇貴太妃」という尊称を贈りました。

これは事実上の皇太后としての地位を与えられたのと同じです。

裕太妃は乾隆帝から深く慕われ、後宮で最も尊敬される存在もなりました。

長寿の秘訣

裕太妃は96歳(数え歳)という長寿を全うしました。

当時の人々にとってはとても珍しいことでした。裕太妃が長生きできたのは聡明で知的な女性であったこと、そして健康に気を配っていたことが大きく影響しているようです。

乾隆帝や周囲の人々から深く愛され、尊敬されていたことも、裕太妃の健康な老後を支えたと言えるでしょう。

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まとめ

裕太妃は、決して楽な人生を送ったとは言えませんが、晩年は乾隆帝の側で穏やかに過ごしました。

息子を亡くすという悲しみを乗り越え、乾隆帝の母のような存在になり。彼女は後宮で最も尊敬される女性の一人になりました。

裕太妃の長寿は、彼女の知性、健康への配慮、そして周囲の人々からの愛と敬意がもたらした結果と言えるかもしれません。

 

テレビドラマ

瓔珞〜紫禁城に燃ゆる逆襲の王妃〜 2018、中国
役名:裕太妃  演:白珊

主人公・魏瓔珞の姉が死亡する原因を作った弘昼の生母。善人を装いますが様々な策略を使い、弘昼をあらゆる方法で守ろうとします。瓔珞にとっては倒すべき敵として登場。役者の見た目が史実よりもかなり若い。本当は後宮で最年長者です。

 

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