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風起西州の史実:麴崇裕はなぜ裴行倹と対立?高昌国滅亡と唐の西州支配

ドラマ『風起西州』では、麴氏一族と唐の官僚・裴行倹の間で激しい対立が描かれます。

「なぜ麴崇裕はこんなに裴行倹を嫌っているのだろう?」と不思議になりませんか?

その答えはドラマが始まる数十年前――高昌国滅亡と西州支配権をめぐる戦争にあります。

ここでは史実をもとにその背景を解説、さらにドラマでの描写との違いも紹介していきます。

 

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高昌国とはどんな国?

シルクロードの重要な場所にあった国

高昌国は昔のシルクロードで重要な役割を果たしたオアシスの都市でした。今の中国新疆ウイグル自治区トルファンのあたりにあって、乾いた盆地の中に豊かな緑のオアシスが広がっていました。

高昌国は東西を結ぶ交易路の中継地点としてとても重要な場所です。中国の長安や洛陽から来る隊商や中央アジアや西方からの商人も、みんな高昌国を通って休んだり物資を補給したりしていたのです。

経済的にも豊かで絹や陶磁器、香料、宝石、毛織物など様々な品々が行き交っていました。多くの文化が交わる場所でもあったため、漢族はもちろん、ソグド人やトルコ系の民族、さらにはインド系の僧侶など様々な人達が暮らしていました。

王家は麴氏

高昌国の王は麴(きく)氏です。麴氏は金城郡(甘寧省)出身の漢人を祖先にもつ一族で5世紀頃にはこの地で暮らしていました。501年には麴嘉が国王となり、以後11代の国王が誕生し、140年にわたってこの地を治めていました。

シルクロード交易で栄えた豊かな国

麴氏の時代、高昌国は交易で大きな富を築きました。高昌国の繁栄がピークになったのは7世紀ごろです。

文化面では特に仏教を手厚く守り育てていました。玄奘三蔵がインドに向かう途中、高昌国に立ち寄りました。その時の国王・麴文泰(きくぶんたい)は玄奘三蔵を手厚く歓迎し、引き留めようとしたことがあります。

経済的にも文化的にも進んだ国でした。そのため高昌国は「砂漠の中の楽園」とも呼ばれ当時は非常に栄えていたのです。でも、その繁栄が唐王朝の目を引き狙われることになります。

 

唐による高昌国滅亡(640年)

7世紀前半。高昌国は西域での影響力を拡大していました。しかし高昌国の存在は唐王朝にとって不安の種になります。地理的な関係で西域の朝貢国は高昌国を通って唐に向かっていたからです。唐の太宗・李世民は、西域経営を安定させるために中央アジアまでの交通路を直接手に入れようと考えました。

当時の高昌王は麴文泰(きくぶんたい)。彼も唐に朝貢していましたが、次第に関係が悪化します。大きな理由は唐の太宗は周辺諸国や東突厥などを征服。高昌王のすぐ隣の伊吾(ハミ)まで占領したことです。高昌国の麴文泰は危機感を感じたのです。麴文泰は西域の大国・西突厥と手を組んで唐に対抗しようとしました。

唐は麴文泰の行いを「裏切り」とみなして640年、名将 侯君集(こうくんしゅう)を総司令官とする遠征軍を派遣しました。唐軍は砂漠地帯を越えて西へ進軍しました。頼みの西突厥の援軍は来ません。麴文泰は唐軍が到着する前に急病で死去。その息子・麴智盛(きくちせい)が跡を継ぎましたがすぐに降伏。640年。140年近く続いた高昌国は滅亡しました。

高昌国の滅亡後、唐は旧高昌国領に西州都護府を設置。軍政と民政を直接管理する体制を作りました。しかし降伏した麴氏一族の多くはそのまま現地に残され、土地や交易網を維持しました。つまり「政治的には唐の領土になったが、経済的・社会的には麴氏の影響下にある」という微妙な状態が続いたのです。

 

実在した高昌国の王族 麴一族

高昌国の末期から滅亡前後の実在した麴一族について紹介します。

麴文泰(きく・ぶんたい)

  • 生没年:?〜640年
  • 高昌国の有力な王。
  • 唐の勢力拡大を警戒して西突厥と同盟。
  • 唐の太宗 李世民による高昌国討伐を招きました。
  • 玄奘三蔵を歓迎した国王

 

麴智盛(きく・ちせい)

  • 生没年:?〜?
  • 麴文泰の長男。
  • 高昌国最後の王
  • 唐軍が迫る中、父が病死したので国王を継ぎました。
  • 即位してすぐに唐に降伏。
  • 唐の臣下となり左武衛将軍・金城郡公に任命されました。
  • 高昌国のあった場所から離され、唐の朝廷の軍事官としての地位を得ました。

麴智湛(きく・ちたん)

  • 生没年:?〜669年
  • 麴文泰の息子。麴智盛の弟。
  • 唐に降伏後は右武衛中郎将、天山県公になりました。
  • 651年。西突厥の脅威が高まったときには西州刺史兼安西都護に任命されます。
  • 658年。唐が西突厥を滅ぼし安西都護府を龜茲(現在のクチャ)に戻すまで在任。
  • 後に左驍衛大将軍、西州刺史、上柱国、天山郡開国公などの称号を得ました。
  • 669年3月22日に没。
  • 国王だった兄に変わり、高昌に残りこの地を治めていました。
  • 息子に麴崇裕、娘に甘露寺の尼姑真如がいます。

ドラマ「風起西州」に登場する麴都護はこの人物。

 

麴崇裕(きく・すうゆう)

  • 生没年:?〜?
  • 麴智湛の子。
  • 唐の左武衛大将軍
  • 交河郡王の称号を持ちます。
  • 高昌滅亡後も麴氏の一族として唐政権内で重要な軍事・政治的地位を維持していました。

麴崇裕はドラマ「風起西州」に重要人物として登場します。

 

西州(旧高昌国領)の支配構造

高昌国滅亡後、唐王朝はその中心地であった交河城(現在のトルファン西方)に安西都護府を設置しました。地図で見ると以下の場所になります。

7世紀後半の唐と東アジアの国々

7世紀後半の唐と東アジアの国々

ここは西域経営の拠点。軍事と行政の両方を管理する重要な場所でした。都護には唐の中央から派遣された高官が任命され、名目上は唐の直轄地となります。

でも現地の実情はそれほど単純ではありません。

かつての高昌国を支配していた麴氏一族は降伏後も多くの土地と交易網を管理していました。特にシルクロード交易の中継地としての倉庫や宿場、駱駝(らくだ)隊の管理などは麴氏の手の中にあり経済面では依然として強大な力を持っていたのです。

さらに現地住民の多くは麴氏一族と血縁や婚姻で結ばれていて、文化的にも高昌時代の伝統を引き継いでいました。

唐から派遣された都護や官僚たちは形式的には支配者ですが、実際の統治や経済運営では麴氏の協力がなければ動かせない場面もあったのです。

こうして「政治権力は唐、経済・社会的影響力は麴氏」という二重支配が続きました。

唐が現地の安定を保つための妥協策でしたが、同時に唐の朝廷が本格的な改革を行おうとするたびに麴氏との摩擦を生む原因にもなりました。

裴行倹が派遣される

557年。裴行倹西州長史として派遣されてきました。裴行倹は武則天の皇后即位に反対したため左遷さたのです。

高昌国が滅んでまだ17年。麴氏一族の力はまだ残っています。裴行倹も前任の役人と同じように現地の人々との関係で苦労したことでしょう。

裴行倹は突厥との戦いで功績をあげたことはよく知られていますが、現地でどのような政治をしていたのかについては詳しい資料はありません。

しかし周辺国からの評判はよく、彼の在任中に周辺の部族や国が唐に従う者が増えたとあります。

麟德二年 擢累安西都護 西域諸國多慕義歸納。
出典:新唐書卷08裴行倹傳

 

665年には安西大都護に昇進。

その後、彼の功績が評価されて朝廷に呼び戻されています。

 

ドラマ『風起西州』における脚色と違い

中国ドラマ『風起西州』は裴行倹が西州に派遣された史実をもとにドラマが作られ、高昌国滅亡後の唐の西域支配や麴一族の存在も描かれています。でも大きく脚色されています。

単なる敵ではない麴一族の描写

現地の要人・都後の麴智湛や、その息子・麴崇裕は実在する人物です。でも麴鏡唐などは架空の人物。

麴崇裕も実在した人物ですが、彼の記録は名前と役職しかわかっていませんので、性格や言動、家族間の葛藤は100%創作されています。

麴一族内の親子や兄弟姉妹との関係。麴一族は、朝廷が派遣した役人への反感を持ち、元王族としての誇りが描かれます。麴崇裕は最初は裴行倹に反発していましたが、やがて裴行倹の真摯な態度にうたれて彼に協力するようになります。

彼らはただ保身のために逆らっている抵抗勢力ではなく、可哀想なだけの人でもない。苦悩や葛藤をかかえた人間として描くことで視聴者が感情移入しやすいようになっています。

 

大長公主の陰謀

大長公主の介入や暗殺未遂といった陰謀は史実には記録がないドラマ独自の演出です。

劇的な事件や大きな敵があるとドラマがより面白くなります。西州を代表する麴一族をわかりあえる人達として描いているため。どうしても別に敵役が必要という事情もあるでしょう。

皇帝の叔母にあたる大長公主という大きな敵を設定していますから、西州にいても容赦なく刺客を送り込んできたり現地の役人を動かせます。簡単には倒せない大きな敵の存在は、ドラマを盛り上げるためにも必要ですね。

 

裴行倹の人間的な思いと夫婦の関係

ドラマでは裴行倹が西州に行くきっかけが史実とは違います。

武則天が皇后になるのを反対して左遷されたことになっているのは変わりませんが。ドラマの裴行倹は高宗の密命があり、裴行倹も自ら望んで西州に行ったことになっています。

裴行倹が西州で突厥と戦って戦果をあげたのは史実ですが。歴史の流れの中でおきた出来事です。でもドラマでは自分からお国のために脅威になる存在を討ちたくて行った。という流れに変更されています。

都合良すぎるようにも思えますが、左遷されたとなるとイメージが悪いせいかも知れませんが。

また裴行倹に妻の庫狄氏がいたのは事実です。琉璃の描写や彼女との関係は100%創作です。でもこれによって、歴史上の人物の裴行倹と庫狄氏にも日々の暮らしがあり身近な存在として感じられるようになっています。

 

あとがき

『風起西州』を見ていると、史実そのままの場面もあれば「これは完全にドラマならでは!」という展開も出てきます。史実では麴氏一族と唐のやり取りは淡々と書かれていますが、その裏には家族の絆や誇りお互いの立場がぶつかり合うドラマがあったはずです。

ドラマでは記録に残らない部分を大胆に膨らませて、エンタメ作品としての面白さや、人間らしさを描いてくれています。だからこそ史実を知ってからドラマを見ると「あ、この設定はこういう背景からきてるのか!」と発見があって面白く感じられるのです。

史実とドラマの両方を味わいながら『風起西州』の世界を楽しんでみてくださいね。

 

風起花抄・風起西州
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この記事を書いた人

歴史ブロガー・フミヤ

京都在住。2017年から歴史ブログを運営し、これまでに1500本以上の記事を執筆。50本以上の中国歴史ドラマを視聴し、史実とドラマの違いを正史(『二十四史』『資治通鑑』など)に基づき初心者にもわかりやすく解説しています。

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