李昞は大ヒット中国ドラマ『独孤伽羅〜皇后の願い〜』に登場する人物です。
このドラマでは主人公の独孤伽羅やその姉妹たちと深く関わる存在として描かれます。
でも李昞は単なるドラマの登場人物ではありません。彼は後に中国統一王朝である唐を建国する李淵の父という非常に重要な歴史上の人物です。
ドラマで描かれる李昞の姿と史実での彼の役割にはどのような違いがあるのでしょうか?
この記事では李昞の生涯を紹介。ドラマ『独孤伽羅』と史実での生涯の違いも解説します。
ドラマ『独孤伽羅』での李昞の描かれ方
大富豪
ドラマ『独孤伽羅』で李昞は隴西郡公の地位にあり、北周朝廷に匹敵する財力をもつという大富豪。
独孤信よりは10歳位年下。実際の年齢よりも若く見えます。
独孤家とも親しく、伽羅の母方の親戚となっています。
独孤曼陀の夫として登場
ドラマの中では独孤信の次女 独孤曼陀の夫となります。
劇中の曼陀は楊堅との結婚が決まっていたのですが、曼陀は野心も財力も劣る楊堅との結婚を望みませんでした。
曼陀は乳母の馬氏の入れ智慧で李澄と結婚しようとするのですが。間違って李昞の寝室に入ってしまいそのまま一晩過ごします。
結局、李昞は曼陀の策略によって彼女の夫となりました。ドラマでは権力欲の強い曼陀に振り回される様子も描かれます。
彼の登場は物語の複雑な人間関係や権力争いを浮き彫りにする重要な要素です。
李昞と曼陀の間には李淵が生まれ、唐国公の地位を継ぎます。ドラマでは描かれませんが、李淵が後に唐を建国します。
他にも李昞の登場場面はあり、様々なドラマが用意されています。李昞が劇中でどのように描かれているかは「独孤伽羅のあらすじ」を覧ください。
李昞を演じた俳優
ドラマ『独孤伽羅』で李昞を演じたのはベテラン俳優の盧星宇(ルー・シンユー)さんです。彼の演技は優しくも曼陀を受け入れる李昞の複雑な心情を表現していました。
盧星宇(ルー・シンユー)さんは時代劇でもおなじみ。
- 「麗王別姫」史思明
- 「三国志〜司馬懿 軍師連盟〜」陸遜
- 「長安賢后伝」董易之
- 「長歌行」公孫恒
- 「永楽帝」藍玉
などを演じています。
ちなみに独孤伽羅を主人公にした別のドラマ『独孤皇后』には李昞は登場しません。
史実の李昞はどんな人物だったのか
李昞の基本情報と家族
ここで李昞の基本情報と家族構成をまとめましょう。
- 漢姓:李(り)
- 鮮卑姓:大野(だいや)
- 名前: 昞(へい)
- 字: 明澤(めいたく)
- 廟号:世祖(追尊:唐朝)
- 本貫:隴西郡成紀県
- 生年月日:不明
- 没年月日:572年
家族
- 父:李虎
- 母:梁氏
- 妻:独孤氏(独孤信の四女)
- 子供
梁王:李澄
蜀王:李湛
鄭王:李洪
高祖:李淵(唐の初代皇帝)
同安公主
李氏の出自と家柄
李昞(りへい)は字を明澤といいます。隴西郡成紀県(現在の甘粛省秦安県)出身の人物とされます。彼は中国の南北朝時代西魏から北周にかけて活躍した重臣でした。
少なくとも唐の太宗の時代からは彼の家系は漢民族の家柄を名乗っていますが。大野(だいや)という鮮卑姓も持っていました。このため李氏が鮮卑系の遊牧民の家系ではないかという説もあります。
北周時代は大野姓を名乗っていました。したがってドラマでは「李昞」と呼ばれていますが、実際には大野昞だったのです。
李昞の生涯・誕生から西魏時代
彼の父 李虎は西魏の「八柱国」のひとりです。八柱国とは皇帝を補佐する臣下の中で最も高い地位の将軍を指します。李虎の地位は宇文泰や独孤信よりは下ですがほぼ同格といえる重臣でした。
李昞の生没年は不明。彼は親孝行で思慮深く、度量がある人物だったと伝えられています。
若い頃から西魏の実力者・宇文泰から注目されていたらしく西魏の時代には「汝陽県開国伯」の爵位を与えられ通直散騎常侍や車騎大将軍などを歴任します。
551年に父李虎が亡くなると李昞は「隴西郡公」の地位を引き継ぎました。李昞には兄が2人いたようですが早くに死亡しているようです。その後驃騎大将軍開府儀同三司侍中などの要職を歴任します。
北周建国後に唐国公になる
北周が建国された後。亡き父・李虎に「唐国公」の爵位が与えられました。564年には李昞が「唐国公」を引き継ぎます。これは後の唐王朝の国号の由来になりました。
時期は不明ですが、息子の李澄、李湛、李洪が誕生。彼らの母もわかりません。
李淵が誕生・唐国公を継ぐ
566年。四男・李淵が生まれました。
李淵の母は独孤信の四女です。
さらに御正中大夫安州総管なども務めました。安州総管としての政治は「簡素で静かであり当時大変評判が良かった」と記録されています。
571年には柱国大将軍少保に任命されました。これは当時の最高位の武官です。568年には北周武帝の命で咸陽に駐屯し京城長安の安全を守りました。
李昞には李淵の他に李澄、李湛、李洪という3人の息子がいましたが、彼らは早くに亡くなったようです。そのため572年に李昞が亡くなった時には、わずか7歳だった四男の李淵が唐国公の地位を継ぎました。
李昞の没後、彼は咸陽に埋葬されました。李淵が唐を建国した際、李昞は「世祖元皇帝」と追諡され彼の墓は「興寧陵」と名付けられ再建されました。
ドラマと史実の李昞ここが違う
ドラマ『独孤伽羅』と史実の李昞にはいくつか大きな違いがあります。
家柄
史実では独孤信と同じ八柱国のひとつ。李家も武門の家柄でした。
ドラマでも八柱国のひとつにはなっているようですが、武勇よりも商売で大成功、大富豪としての性格が強調されています。
独孤曼陀との関係性
史実では独孤信の四女と結婚(再婚)。李淵が誕生しました。
ドラマでは独孤信の次女・曼陀と結婚(再婚)。李淵が誕生しています。
史実では独孤信には7人の娘がいましたが、ドラマでは3人に減らされており。そのため李淵の母も次女の設定になっています。
結婚の経緯はドラマのオリジナルです。歴史上はどのような経緯で結婚したのかは不明。当時の慣習として政略結婚の可能性が大きいです。
唐の建国に繋がる李昞の功績
李昞自身が唐を建国したわけではありません。でも李昞の残した地位や勢力は李淵が唐を建国する上で重要な基盤となりました。
唐国公の称号とその意味
李昞が受け継いだ「唐国公」の称号は彼の父 李虎の功績によるものです。この称号が後に李淵が国を建国した時に「唐」という国号を選んだ理由の1つです。
李昞は「唐国公」の称号を受け継ぎ、北周でも高い地位と権威を持っていました。
李氏の基盤を築いたこと
李昞は名門 隴西李氏の家長としてその地位を盤石にしました。彼は領地の統治が上手く、性格も穏やかで思慮深かったので人々の心を掴んだようです。彼らが築き上げた人脈や財産は後に李淵が隋末の混乱の中で勢力を拡大し唐を建国する際に大きな力となりました。
李昞は唐王朝の礎を築いた人物のひとりと言えます。
家族や親族の重要性
李昞が独孤信の娘と結婚。李氏が独孤氏という当時の名門と姻戚関係を結んだことになります。
独孤信の七女 独孤伽羅は隋の初代皇帝 楊堅の皇后になりました。李氏が隋の皇室とも姻戚関係になっていたことになります。そのため李淵は楊堅から信頼され、隋朝でも高い地位に就きました。
そのため隋末期の混乱時期には李淵の勢力は有力な勢力となりました。
唐建国には李昞が李虎から受け継いだ地位や人脈、自ら築いた勢力。独孤氏との縁組で得られた隋朝での地位が大きな役割を果たしました。
まとめ
李昞はドラマ『独孤伽羅』では独孤曼陀の夫として登場。わがままな独孤曼陀に振り回されつつも、味のある存在として視聴者を楽しませてくれます。
史実では唐の初代皇帝 李淵の父であり名門 隴西李氏の家長として唐王朝の基盤を築いた重要な存在です。
ドラマと史実では李家の描かれ方や、独孤信の娘(ドラマでは曼陀)と結婚したいきさつに違いがあります。
でもこの結婚が後の唐の建国という歴史的な大事業に深く関わっています。
彼の生涯を知ることはドラマ『独孤伽羅』を楽しむだけでなく、唐の歴史に触れる良い機会にもなるのです。
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