長孫皇后は唐の皇帝、太宗・李世民の正室。
皇后としての立場を守り、個人的な理由で政治に介入することなく中国史上でもとくに賢明な皇后といわれます。
史実の長孫皇后はどんな人物だったのか紹介します。
長孫皇后の史実
どんな人?
姓:長孫
名:不明
幼名:観音婢
生年月日:601年
没年月日:636年
在位:626~636年
彼女は初代高祖~2代太宗時代の人物。
日本では飛鳥時代になります。
家族
母:高氏
子供:
李承乾(皇太子)
李泰(魏王)
李治(高宗)
長楽公主
城陽公主
晋陽公主
新城公主
長孫氏のルーツ
長孫皇后は鮮卑の拓跋部の子孫。鮮卑は北魏王朝を建てた遊牧騎馬民族です。
『魏書・官氏志』という歴史書によると鮮卑族のリーダー 献帝拓跋隣が自分の一族を8つのグループに分けたとき、そのうちの1つのグループを「拔拔部」と名付けました。彼らは拔拔氏を名乗ります。
拔拔氏は北魏の皇族の中でも特に重要な10の氏族の一つに数えられていました。
漢の文化に憧れる北魏の孝文帝は姓を漢風にするよう命令。拔拔氏は長孫氏と名乗る事になりました。
父は隋の将軍
彼女の父・長孫晟は隋の右驍衛将軍であり、著名な外交官として突厥との平和に貢献した人物です。
母は北斉の皇族の子孫
生母の高氏は北斉の皇族の末裔。清河王高岳の孫娘。楽安王高勱の娘です。
異母兄に家を追い出される
長孫皇后の伯父・長孫熾は、ある時とても興味深い話を耳にしました。李淵の妻 竇氏(とうし)はまだ幼い頃からとても頭が良かったというのです。長孫熾は「竇氏は将来、素晴らしい子を産むに違いない」と考え、長孫晟に竇氏の子と結婚させるよう勧めました。
長孫晟は長孫熾の勧めどおりに竇氏との間に縁戚関係を結ぶ約束をしました。
ところがその後、長孫晟が亡くなってしまいました。後を継いだ異母兄の長孫安業と継母は長孫皇后の母・高氏や弟・長孫無忌を家から追い出してしまいます。
でも母の兄 高士廉に助けられ無事に暮らすことができました。
李世民と結婚
613年。高士廉の仲介によりまだ13歳だった長孫皇后は李淵と竇氏の息子・李世民と結婚しました。
618年。隋が滅んで唐が建国。義理の父・李淵(り・えん)が皇帝になりました。
秦王妃としての活躍と玄武門の変
李淵が皇帝になると、李世民は秦王、長孫皇后は秦王妃となりました。
隋の末期。混乱が続く中、李世民への支持を集めようと後宮内で人脈作りをしました。
そして有名な「玄武門の変」が起こります。
高祖・李淵の息子たちが皇位継承を争った事件。李世民が、皇太子 李建成と弟の李元吉を玄武門で殺害した事件。
この時、長孫皇后は自ら軍勢を激励し、李世民を支えました。
結果、李世民が勝利し皇太子となります。
皇后として
読書家であり、知的なパートナー
長孫皇后は、読書をこよなく愛し、常に知識を求めていました。唐太宗との間では、政治や歴史について活発な議論を交わし、彼にとってなくてはならない存在でした。皇后でありながら、政治にも深く関わり、唐太宗の決断を支えました。
外戚の権力に警戒を促す
優れた臣下を保護し、仁政を奨励
長孫皇后は魏徵のような正直で優れた臣下を保護し、唐太宗に仁政を行うよう促しました。彼女の意見は唐太宗の政治に大きな影響を与え、貞観の治と呼ばれる平和で安定した時代をもたらしました。
女性としての生き方
長孫皇后は質素な生活を送り礼儀作法を重んじました。
また絵画や文学にも造詣が深く、教養豊かな女性でした。後宮の女性たちにも優しく接し、母としての役割も立派に果たしました。
長孫皇后の政治的な影響力
長孫皇后は、当時の中国で女性が政治に関わることを良しとしない風潮の中、夫である唐太宗李世民から政治に関する相談を受けることがしばしばありました。
政治への参画と困難
長孫皇后は女性が政治に関わることに慎重な態度を見せ「雌鶏が夜明けを告げると、家は窮乏する」という諺を用いて、女性が政治に関わることがよくないと答えていました。
でも李世民からの希望が強まるにつれ、最終的には政治に関わることを決意します。
外戚の権力と過去の教訓
兄の長孫無忌が朝廷で高い地位を占めるにつれ、外戚の権力が大きくなりすぎることを心配しました。
過去の王朝で外戚が権力を握り国を滅ぼした例を挙げ、李世民に長孫無忌の権力を抑制するよう進言しました。これは長孫皇后が単に家族を愛していただけでなく、国家の安定をよく考えていたからです。
家族への愛情と政治的な判断
異母兄の長孫安業が反乱に連座して処刑の危機に陥った際、長孫皇后は李世民に命乞いをしました。
長孫安業はかつて長孫皇后を家から追い出した異母兄。憎い気持ちもあったかもしれません。
長孫皇后の行動は家族を守る行動に見えるかもしれませんが、それと同時に皇后の地位を利用して個人的な復讐をしていると思われるのを避けるためでもあるのです。
皇后としての役割
長孫皇后は、政治的な活動だけでなく、皇后としての役割も積極的に果たしました。唐で最初の蚕の儀式を行うなど、皇后としての責務を全うしました。
長孫皇后の最期と李世民の深い悲しみ
貞観8年(634年)。長孫皇后は九成宮に行幸した際、病に倒れてしまいます。その後、病と闘い続けましたが貞観10年(636年)、わずか36歳という若さでこの世を去りました。
長孫皇后は昭陵に埋葬され「文徳聖皇后」という諡号を贈られました。
李世民は最愛の妻である長孫皇后の死を深く悲しみ、その後、新たな皇后を迎えることはありませんでした。そしてその陵墓をいつも眺めていました。
長孫皇后の残した貴重な書物「女則」
長孫皇后は生前に女性が身につけるべき道徳や規範などをまとめた『女則』という書物を著しました。これは10篇からなる大作です。残念ながら、この書物の多くは失われてしまいましたが、一部は現在も残っており当時の女性の生き方を垣間見ることができます。
長孫皇后の死後、唐太宗は『女則』を受け取り読みました。書物を読む中で長孫皇后の深い思想や、女性としての理想の姿を感じ取った李世民は再び大切な相談相手を失ったことを深く悲しんだと言われています。
その後、李世民は自らも病に倒れ長孫皇后と同じ昭陵に埋葬されました。夫婦は生前と同じように死後も永遠の眠りについたのです。
王朝が発展しているときの皇帝にはよい皇后がいるものです。太宗・李世民にとっては長孫皇后が最高のパートナーでした。
ドラマの長孫皇后
2014年 中国、武則天 The Emprress 、演:張定涵 、役名:長孫氏
2018年 中国、大唐見聞録 、演:袁詠儀、 役名:観音婢
2020年 中国、(原題:天下長安)、演:舒暢、 役名:長孫竭羅
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