郭聖通(かく・せいつう)は後漢の建国者・光武帝 劉秀の正室。
中国ドラマ「秀麗伝」では過珊彤(か・さんとう)の名前で登場します。
郭聖通の役割は光武帝が自分の帝国を建国するためにとても重要でした。
郭聖通が「持参金」として10万人の軍隊を持ってこなければ、劉秀は河北で孤立して死亡。
後漢はなかったかもしれません。
だから劉秀に陰麗華という好きな女性がいても、皇后になったのは郭聖通でした。
でも、郭聖通はやがて皇后の座を奪われ降格になってしまいます。
結果的には光武帝の天下取りに利用されただけの女性のようにもみえます。
史実の 郭聖通(かく・せいつう、せいとう)はどんな人物だったのか紹介します。
郭聖通の史実
プロフィール
姓 :郭(かく)氏
名称:聖通(せいつう、せいとう ともいいます)
国:新→漢(後漢)
称号:光武郭皇后
生年月日:6年ごろ
没年月日: 建武28年6月7日(52年7月22日)
日本では弥生時代になります。
家族
母:劉氏(郭主:本名ではなくあだ名)
弟:郭況
叔父:劉楊(劉揚とも書きます)
夫:劉秀(光武帝)
子供:
東海恭王 劉彊
沛獻王 劉輔
濟南安王 劉康
阜陵質王 劉延
中山簡王 劉焉
館陶公主?
おいたち
紀元前2年。郭聖通(かく・せいつう)は真定(中国河北省正定県)で生まれました。
父の郭昌(かく・しょう)は真定の名門豪族。裕福な資産家でした。
郭昌は膨大な土地や財産を異母弟に譲って慈悲深い人だと言われました。
母は真定恭王・劉普の娘。母は郭主(かくしゅ)と呼ばれていました。郭主の兄には劉楊(りゅう・よう)がいます。
漢の時代には王位争いから外れた王族が地方に移住。地元の豪族と婚姻関係になることがよくありました。
弟には郭況がいます。
父の郭昌は早くに死亡。郭聖通と弟は母の郭主・劉氏に育てられました。郭主・劉氏は倹約家で、地元の人々からも尊敬されていました。郭聖通は家を取り仕切る母を助けて家事を行ったと言います。
劉秀と結婚
郭聖通の少女時代を過ごした新朝時代は各地が混乱。飢饉も重なって。略奪が頻繁にあった時代です。河北も混乱。豪族たちは野盗から守るため武装していました。
そうした中から漢王室の血を受け継ぐという王郎が河北で「皇帝」を自称。河北の豪族たちは王郎を支持していました。
王郎は更始帝・劉玄と対立していました。
郭聖通の叔父・劉楊は王郎を支持、10万の兵を集めていました。といっても王郎を熱烈に支持しているわけではなく、微妙に距離をおいていました。
更始2年(24年)春。更始帝から河北平定を命令された劉秀は王郎を倒そうとしていました。
劉秀は劉楊のもつ10万(一節には30万)の兵を味方にしたくて、驍騎将軍の劉植に劉楊を説得させました。劉楊は王郎よりも劉秀に将来性を感じて劉秀と同盟しました。
劉秀は誠意を見せるため劉楊の出した条件を認めました。
それが劉秀と郭聖通の結婚です。
劉秀はすでに陰麗華と結婚していました。このときの劉秀に必要なのは資産家だけれども大した兵力を持たない陰家ではなく、10万の兵を持つ劉楊を味方にすることでした。劉秀は郭聖通と結婚しました。
この当時、重婚は罪ではありません。(陰麗華の心中はおだやかではないと思いますが)。
劉秀は劉楊と10万の兵の力を得て河北を統一。
建武元年(25年)。劉秀は光武帝として即位しました。
郭聖通は貴人になりました。
長男の劉彊(りゅう・きょう)が生まれました。
光武帝は新野に避難していた陰麗華を都の洛陽に呼び出し貴人の位を与えました。
後漢の皇后になる
皇后を郭聖通にするか、陰麗華にするかで問題になりました。最終的には陰麗華が皇后を「辞退」という形で決着して郭聖通が皇后になりました。
「郭皇后」とよばれます。
とはいっても。陰麗華には子供がなく、陰家がほとんど光武帝の即位に貢献していないのに対して。郭聖通は息子を生んでいます。郭聖通の叔父・劉楊は10万の兵で劉秀に味方しました。光武帝への貢献度では陰家よりもダントツに劉楊の方が上です。
建武2年(26年)。郭聖通は皇后になりました。郭聖通の息子・劉彊が皇太子になりました。
また、当時16歳だった弟の郭況(かく・きょう)も黄門侍郎として採用されました。
政略結婚で劉秀と一緒になった郭聖通でしたが。結婚当初は二人の仲は良かったようです。劉秀と郭聖通の間には五男一女の子供が生まれました。
叔父が処刑・後ろ盾を失ってしまう
郭聖通が皇后になったのと同じ年。真定王・劉楊が謀反を企んだという理由で処刑されます。
郭聖通は大きな後ろ盾を失いました。
でも皇后と息子の劉彊の皇太子の座が危なくなることはありませんでした。
というのも劉楊がいなくなっても河北の武将たちは郭聖通と劉彊を支持しています。光武帝は彼らの協力が必要なので郭皇后を邪険に扱うわけにはいかないのです。
建武12年(36年)。光武帝は最後まで抵抗していた蜀の公孫述を滅ぼし。中華統一しました。
寵愛が薄れる
建武14年(38年)。弟の郭況が城門校尉に昇進。
このころから光武帝は郭皇后を寵愛しなくなりました。
世の中が平和になり。河北の武将に気を使う必要もなくなりました。
郭皇后は美人でした。でもこのころになると年齢からくる衰えも気にしたり、光武帝があまりかまってもらえないことに不満を言うことが多くなったようです。(といっても陰麗華とほぼ同じ年齢)
光武帝は外戚(妻の実家や親戚)は採用しますがあまり出世はさせません。陰麗華や陰識が出世を望まなかった。というのもあります。
そのせいか、郭一族の出世も陰一族と同じ程度に抑えられました。
郭皇后はそれも不満だったようです。
郭皇后には皇太子を含めて5人の息子がいます。でも陰麗華にも息子がいて優秀だと評判です。
こうなると郭皇后も穏やかではいられません。文句が増えました。
そうなると光武帝としては若い頃から好きだったし、控えめで文句も言わない陰麗華の方がいい。となります。
歴代悪女と比べられて誹謗中傷される
建武17年(41年)。光武帝は突然、郭皇后を廃しました。
その理由は
というもの。
前漢の初代皇帝劉邦の正室。貧しかった劉邦は裕福な呂家の娘・呂雉と結婚。その後、皇帝になりました。劉邦の死後、皇太后になった呂氏は政治を動かし皇族や臣下を殺害。後の時代には中国三大悪女の一人と言われます。
前漢9代皇帝・宣帝の2番めの皇后。重臣・霍光の娘。平民出身で宣帝が即位前から結婚していた許氏が皇后になったのが不満で、霍成君の母が医師を買収して許皇后を毒殺。その後、霍成君が皇后になりました。霍一族が許皇后の息子を殺害しようとしたともいわれます。霍光の死後。廃位され自害。
境遇が似ている歴代の悪女を並べて郭聖通を批判しているのです。
かといって郭聖通や郭一族が呂雉や霍成君のように悪事を働いた具体的な記録はありません。言いがかりです。
廃后になる
郭聖通は控えめな女性でなかったのは確かかもしれません。でも郭聖通は皇后を廃されるほどひどいことはしていません。陰麗華を皇后にするための言いがかりのような内容です。
郭聖通は廃位され。陰麗華が皇后になりました。
郭聖通は「中山王太后」と呼ばれるようになりました。郭聖通が廃后になった直後に息子の二人目の息子・劉輔が中山王に昇格したからです。
皇太子・劉彊は臣下に説得されて何度か皇太子を止めさせて欲しいと光武帝に訴えました。でも劉秀はすぐには辞めさせませんでした。
郭聖通は皇后ではなくなりました。でも光武帝としては郭一族から恨まれたくはありません。弟の郭況が大国の陽安侯に任命したり。郭一族を優遇しました。
建武17年(41年)。光武帝は皇太子・劉彊を皇太子から外して東海王にしました。
建武20年(44年)。劉輔が沛王になりました。郭聖通は「沛王太后」と呼ばれるようになります。
建武26年(50年)。郭聖通の母が死去。光武帝は葬儀に参列。墓を作り、使者を派遣して義父・郭昌の棺を取り寄せて郭聖通の母とともに合葬しました。
建武28年(52年)。郭聖通は死去。光武帝の墓とは合葬されず、北邙山に葬られました。
光武帝は郭況の子・郭璜と淯陽公主を結婚させました。
テレビドラマの郭聖通
秀麗伝〜美しき賢后と帝の紡ぐ愛〜
2016年、中国 演:王媛可(ワン・ユエンカー)
役名:過珊彤(か・さんとう)
オリジナルの中国版は 郭珊彤 の名前でした。
香港版と日本版ではなぜか 過珊彤(か・さんとう)の名前に変更されています。
ドラマの郭珊彤は、あからさまに悪者のように描かれています。
郭聖通は謙虚で賢い女性ではなかったのかもしれませんが。悪人という程ではないので。名前を変えたのでしょう。
中国では史実よりあからさまに悪く描かれている場合、名前が変更されることがあります。そのせいでしょうか。
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