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魏恵王の史実:魏の衰退を招いた野心家

春秋戦国時代 8 春秋戦国

魏恵王は4世紀に生きた春秋戦国時代の魏の君主。

魏恵王が生きた時代、中原でもとくに強い大国でした。魏恵王は魏で初めて「王」を名乗った人物です。それまでは周の王に遠慮して各国の君主は「候」や「公」を名乗っていました。大国になった魏は自ら「王」を名乗るようになります。周王に変わって「天子」を自称したこともあります。

天下統一を目指し、積極的に領土拡大を行った魏恵王でしたが、魏恵王の後半は敗戦の連続で次第に国力は衰退していきます。

史実の魏恵王はどんな人物だったのか紹介します。

 

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魏恵王の史実

プロフィール

名称:魏 罃(ぎ・おう)
姓 :姫 氏
氏 :魏

国:魏
地位:魏候→魏王
在位:紀元前370~紀元前319年
称号:文恵王、恵成王
通称:魏恵王

生年月日:紀元前400年
没年月日:紀元前319年

彼は春秋戦国時代の魏の国王

日本では弥生時代になります。

家族

父:魏武侯
母:不明

子供:
太子申(嫡長子)
魏襄王 魏嗣
公子赫(太子申同母弟)

 

王座をめぐる争い

紀元前400年。魏の武侯の嫡子として生まれました。

魏の武侯は後継者を決めないまま死去。異母兄の公子緩と後継者争いになりました。

7月。公子緩は趙国の邯鄲(かんたん)に逃亡しました。

そのころ。公孫頎は韓の韓懿侯と会って「魏の罃と公子緩が争っています。魏罃は王錯の支持を得て優位な立場にいますが、国の半分しか支配していません。この機会に彼を追い出しましょう。この機会を失ってはなりません」と言いました。

韓懿侯はそれを聞いて喜びました。

翌年。韓懿侯は趙成侯と同盟して魏に攻め込みました。魏罃は濁水での戦いに敗れ包囲されました。

趙成侯は韓懿侯に「魏罃を処刑して、公子緩に継がせましょう。そして領地を割譲させて我々は撤退しましょう」と言いました。

それを聞いた韓懿侯は「それはいけない。もし我々が魏の君主を殺せば人々は必ず我々を残酷だと非難するでしょう。そして土地を奪えば、我々を強欲だと批判するでしょう。魏の国を二つに分けて、半分を魏罃に、半分を公子緩に与えるべきです。そうすれば魏が強くなることはありません」

趙成侯と韓懿侯はお互いに自分の意見を譲らず夜を明かしました。その後、帰ってしまいました。

命拾いをした魏罃はその後、公子緩を討って魏の支配者になりました。

領土拡大

紀元前368年(魏恵王2年)理由はわかりませんが、王錯は韓に逃げました。魏恵王は公叔痤(公孫座)を宰相に任命しました。

韓と趙はまた同盟して魏に攻めてきました。魏軍は趙の将軍・楽祚を捕虜にしました。魏恵王は喜んで街の外まで迎えに来て、土地を与えて臣下にしました。

その後、檪陽で秦孝公と戦い秦は雍城に退却しました。

紀元前361年(魏恵王9年)5月13日。天下統一のため、中原へのアクセスがよい大梁(河南省開封の南東)に遷都しました。

魏恵王の初期には何度か隣国と会談し、韓や趙と領土を交換して、バラバラだった魏の領土を一つにまとめました。

紀元前360年(魏恵王10年)。運河の鴻溝が開通。

魯共公は「欲望に溺れるものは国を失う」「欲を棄てなさい」と言いました。

紀元前355年(魏恵王15年)。趙が魏に攻め込んできました。魏は衛の援軍を得て趙を撃退。逆に10万の兵を派遣して趙の首都・邯鄲を包囲。翌年10月に制圧しました。趙成侯は北の信都に逃げました。斉は趙に味方して魏の襄陵を包囲。魏は8万の軍を送り戦いました。魏の将軍・龐涓が捕らえられたものの魏軍は大きなダメージは受けませんでした。

紀元前352年(魏恵王18年)。魏は流れを変えるため韓と同盟。襄陵を包囲していた斉・衛・宋の連合軍を攻撃して勝ちました。斉の威王は撤退。楚の大臣・景舍に朝廷を頼んで和睦しました。魏は邯鄲を趙に返しました。

中原での戦いがひと区切りつくと、魏恵王は西に軍を集中させ。秦に圧力をかけて和平を迫りました。

紀元前344年(魏恵王26年)。魏恵王は十二ヶ国の諸侯や周の天子(周顕王)に会い、秦を攻撃しようと計画しました。

秦孝公は恐れて国の防御を強めました。このころ秦孝公は商鞅を採用して

紀元前341年(魏恵王29年)。馬陵之戦いが起こりました。魏は斉の孫臏に二度破れています。嫡子の太子申が捕虜になりました。

紀元前339年(魏恵王31年)。秦の相国(宰相)商鞅は魏の公子卬を罠にはめて捕らえ、魏軍に大損害を与えました。魏の将軍・河西を送って和睦しました。

失意の魏恵王は太子申の同母弟・公子赫を世子(世継ぎ)にしました。

魏は都を安邑から、東方の大梁(現在の開封)に移しました。これ以降、魏は梁とも呼ばれるようになります。

魏恵王の治世の後半は戦乱と敗退を繰り返し、魏は衰退していきました。

紀元前334年(魏恵王36年)。衰退した魏(梁)は斉の属国になりました。は魏恵王は韓やいくつかの小国の君主を引き連れて斉威王に会いに行きました。

紀元前319年。魏恵王は死去。享年81。

 

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有望な人材を逃して敵を強くしてしまう

宰相の公叔痤が死の間際、に自分が雇っている公孫鞅を紹介。「私が死んだら公孫鞅を宰相にしてください。必ず魏を大国にしてくれるでしょう。もし採用しないのなら、すぐにも公孫鞅を殺害してください。もし他国が採用してしまえば魏にとって大いな脅威になります。取り返しがつきません」と遺言しました。

ところが魏恵王は公叔痤がもうろくしているのだと思い、公孫鞅を採用も処刑ももしませんでした。

魏に失望した公孫鞅は秦に行って、孝公に採用されて宰相とになりました。やがて公孫鞅は秦を大改革して強国にしました。この功績で公孫鞅は商の地を与えられ 商鞅 と呼ばれるようになります。商鞅は後の秦の天下統一の基礎を作った人物です。

魏は惜しい人材を逃しました。

TVドラマ

 

鬼谷子・聖なる謀 2014年、中国 演:房子斌 役名:魏王
ドラマの魏王のモデルになったのは魏恵王。次第に野心的になっていく王として描かれます。

ほとんどドラマオリジナルの展開ですが。野心に目覚め有能な人材が去っていくのは同じです。

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