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成蟜(せいきょう)の史実:秦に反乱を起こした嬴政の弟の最後

秦 8 春秋戦国

成蟜(せいきょう)は、始皇帝・嬴政(えい・せい)の弟です。

嬴政の異母兄弟で、父・嬴子楚が秦に戻って娶った側室から生まれた子供だといわれます。

若い頃に長安縣に領地をもらい長安君という称号を与えられました。

兄・嬴政が即位後も信頼されて軍を任されていました。

ところが趙国との戦の最中に反乱を起こしてしまいます。結局、成蟜は反乱のさなかに死亡してしまいます。

史実の成蟜はどんな人物だったのか紹介します。

 

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成蟜の史実

プロフィール

姓 : 嬴(えい)
名称: 成蟜(せいきょう)

国:秦
地位:秦王子→独立
称号:長安君

生年月日:紀元前256年以降?
没年月日:紀元前239年

彼は始皇帝・嬴政の弟です

日本では弥生時代になります。

 

家族

父:荘襄王
母:韓国夫人?兄:始皇帝子供:嬴嬰?

 

生い立ち

生年は不明。

紀元前257年に父・嬴子楚が秦に戻ってきましたから、その後に生まれたことになります。最短でも256年生まれです。

父は嬴子楚(後の荘襄王)。
母はよくわかりません。一説には韓国夫人といわれます。

趙で人質生活を送っていた嬴子楚(えい・しそ)は秦に戻って太子になりました。子楚は趙にいたとき趙姫を妻にむかえ子供の政(せい)もいました。でも秦につれてくることができませんでした。秦に戻った嬴子楚は独り身も同然でした。

そこで嬴子楚の生母・夏姫が妻を娶るようにすすめて、嬴子楚の妻になったのが韓国夫人といわれます。

また韓国夫人は韓の桓恵王が秦に送った女性ともいわれます。美しかったので秀麗夫人とも呼ばれます。

嬴子楚と韓国夫人の間に生まれたのが嬴成蟜(えい・せいきょう)というわけです。

秦王政の時代

紀元前247年。父・荘襄王が死去。兄の嬴政が秦王になりました。

紀元前242年。韓の桓恵王から秦に譲り渡された土地を受け取るため韓国に行きました。といっても当時の嬴成蟜は10代半ば。軍団の指揮や韓との交渉は他の武将が行い、嬴成蟜は飾りのような存在だったでしょう。でも王の弟が直接やってきたというインパクトはあったかも知れません。

その後、嬴成蟜は長安縣に領地を与えられ「長安君」と呼ばれました。

嬴成蟜に手柄をたてさせるために、韓の領土の受け取りに行かせたのかも知れません。

 

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成蟜の乱

紀元前239年。秦王・嬴政は嬴成蟜に趙国を攻めるように命令しました。

ところが軍を率いていた嬴成蟜でしたが屯留(現在の山西省屯留県)で屯留や蒲鶮の兵を率いて反乱をおこしました。

秦は屯留に軍を派遣。屯留での反乱を鎮圧しました。

嬴成蟜は屯留で死亡。自害とも病死ともいわれます。

屯留はもともと韓国の領土でした。韓から譲渡され、嬴成蟜が受け取った土地です。そのため屯留の兵士たちは秦への服従心が低かったのでしょう。嬴成蟜も異母兄の即位に不満だったのかも知れません。

反乱に加わった者たちは処刑されました。

屯留の民は臨洮に移されました。

 

子孫

秦の最後の君主・子嬰は成蟜が趙攻めの際に秦に反乱を起こしたときに趙で生まれた彼の子であると言う説があります。

でも根拠はありません。

 

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まとめ

嬴成蟜は始皇帝の異母弟です。

秦の王子でしたが、兄の影に隠れがちな存在でした。彼の生涯は波乱に満ちていました。

兄・嬴政は王の即位後も成蟜を排除することなく、王族として活動することを認めていました。しかし成蟜には不満があったのでしょう。あるいは周囲の者が焚き付けたのかもしれません。嬴政に反乱を起こし、最後は死に追いやられるという悲劇的な最期を迎えてしまうのでした。

映画

キングダム 2019年、日本 演:本郷奏多

ドラマ

麗姫と始皇帝 2017年、中国 演:蘇宥辰
コウラン伝 2019年、中国 演:洪堯
始皇帝天下統一 2021年、 中国 演:延鴻基

 

 

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