張春華(ちょう・しゅんか)は古代中国の三国時代の女性。
司馬懿(しば・い)の正妻です。
張春華は強気で決断力のある女性だったようです。
でも晩年。司馬懿の地位が高くなると、司馬懿は何人もの側室をもつようになり。張春華を嫌うようになりました。
張春華の自殺未遂という事件も起きています。
史実の張春華はどんな人物だったのか紹介します。
張春華の史実
プロフィール
姓 :張(ちょう)
名称:春華(しゅんか)
国:漢・魏
地位:武陽侯夫人
称号:宣穆皇后(追尊)
生年月日:189年
没年月日:247年
彼女は漢末三国時代を生きた司馬懿の正妻です。
日本では弥生時代になります。
家族
母:山氏
夫:司馬懿子供:
司馬師(普景帝)
司馬昭(普文帝)
司馬榦(平原王)
南陽公主
おいたち
張春華は189年誕生。
父は粟邑県の県令(知事)
母は河内 山氏
張春華は「竹林の七賢(漢末~普を代表する7人の文化人)」のひとり、山涛(さんとう)の叔母になります。
張春華は当時の女性の常識を超えた賢さと洞察力を持っていました。
十代のころ。同郷の司馬懿と結婚。
司馬懿は郡の上計(会計係)をしていまいた。あるとき。魏の曹操は司馬懿を 司空(土木建設大臣)に採用しようと思って呼び出しました。でも司馬懿は漢はもう長くないと思っていましたし曹操に仕えるのも嫌だと思っていました。そこで「中風のため立つこともできません」と仮病を使って断りました。
その後、本にカビが生えたので司馬懿は本を外に出して乾かしていました。すると突然強い雨が降り出したので司馬懿はあわてて本を片付けました。その光景を司馬家に仕える一人の婢(奴婢の女)が見ていました。
張春華は司馬懿が仮病を使っているのが曹操にバレると司馬家が皆殺しになると思って奴婢を殺害。その後、食事を作る女がいなくなったので張春華は自分で炊事をしました。
それ以来、司馬懿は張春華を尊重するようになりました。
その後。漢の丞相(宰相)になった曹操が何度も誘うので司馬懿は士官しまいた。
208年。長男・司馬師を出産。
211年。司馬昭
232年。司馬榦
時期は不明ですが和南陽公主を出産。
晩年の張春華
司馬懿が若い側室を持つ
司馬懿と張春華は晩年までは仲良くしていました。
しかし出世して偉くなった司馬懿は於いた張春華への態度が変わりました。司馬懿は出世すると側室を持ちました。司馬懿には少なくとも生涯で4人の女性がいたことがわかってます。
とくに司馬懿は柏夫人を寵愛しました。他にも伏氏、張氏がいます。
司馬懿は若い女性が好みなので、司馬懿は張春華にあまり会わなくなります。
司馬懿はお見舞いに来た張春華を追い返す
あるとき司馬懿が病気で寝込みました。張春華がお見舞いに行くと司馬懿は
「年寄りはうっとおしい、なんで今ごろ来たのだ」
と言いました。
張春華は怒って断食。自害しようとしました。子どもたちも父の母への仕打ちに嫌気がして母と一緒に食事を断ちました。慌てた司馬懿が張春華に謝罪。断食を止めさせました。
ところが司馬懿は全く反省していません。その後、司馬懿は周囲にいた人に「あの年寄りがいなくなってもかまわんが、我が息子たちが苦しむのが心苦しかったのだ」と憎まれ口を言いました。
司馬懿は典型的なDV夫・モラハラ夫です。
247年。張春華が病死。享年、59歳。
死後。宣穆皇后に追尊
264年。次男・司馬昭が「晋王」になると「穆妃」の称号が贈られました。
265年。孫の武帝 司馬炎が皇帝に即位。晋(西普)を建国すると「宣穆皇后」の称号が贈られました。
歴史書「普書」では張春華を「徳と知恵のある女性」と評価しています。普を作ったのは張春華と司馬懿の子どもたちです。この表現はかなり美化している可能性はあります。
張春華は秘密を見られたからといって侍女を殺してしまう人です。こうと決めたら思い切ったことをする張春華は紀の強い女性だったのでしょう。その気の強さが嫌がられたのか。晩年、夫からは露骨に嫌われていました。
でも子どもたちからは慕われていたようです。ワガママで怖いだけの女性なら子どもたちがそろって張春華の味方をするはずがありません。
若い頃は強気な張春華を認めていた司馬懿ですが。頭がよくてプライドの高い司馬懿は自分の地位が高くなると自分の思い通りにならない女性は鬱陶しくなってきたのかもしれません。
まとめ
張春華は若くして司馬懿と結婚。彼を支えながら数々の困難を乗り越えました。しかし、司馬懿の出世とともに二人の関係は変化していきます。晩年の張春華は夫の冷遇に苦しみながらも子供たちからは深く愛された存在でした。
テレビドラマ
三国志・司馬懿 軍師連盟 2016年 演:陳紫函
コメント