純恵皇貴妃 蘇氏・乾隆帝に愛された側室の生涯と死因?

純恵皇貴妃 蘇氏 1.2 清の皇后妃嬪皇太后
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純恵皇貴妃じゅんけいこうきひ 氏は清朝の第6代皇帝・乾隆帝けんりゅうていの側室。

「瓔珞<エイラク>」では純妃・蘇靜好そじょうこう
「如懿傳」では 純妃・蘇緑筠そりょくりん、として登場します。

史実の純恵皇貴妃 蘇佳氏はどんな人物だったのか紹介します。

 

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純恵皇貴妃 蘇氏の史実

どんな人?

姓:蘇(日本語:そ、満州語:ス)氏
称号:純恵皇貴妃 (じゅんけいこうきひ)
地位: 蘇格格→純嬪→純妃→純貴妃→純皇貴妃→純恵皇貴妃

生年月日:1713年6月13日
没年月日:1760年6月2日

彼女が生きたのは清王朝の第6代皇帝・乾隆帝の時代です。

日本では江戸時代になります。

家族

父:蘇召南(そ しょうなん)
母:不明
夫:乾隆帝(けんりゅうてい)

子供
皇三子 循郡王 永璋(えいしょう)
皇六子 質荘親王 永瑢(えいよう)
皇四女 和碩和嘉公主(わせきわかこうしゅ)

 

おいたち

康熙五十二年五月二十一日(1713年6月13日)、蘇氏は誕生しました。

雍正五年(1727年)、皇四子弘暦(後の乾隆帝)は結婚する前に既に8〜9人の格格(側室)を娶っており、蘇氏もその中に含まれていたと考えられます。

雍正十三年(1735年)五月二十五日、格格の身分であった蘇氏は宝親王(後の乾隆帝)の第三子永璋を出産しました。

 

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乾隆帝の時代

純妃 蘇氏

純妃 蘇氏

後宮での昇進

雍正13年(1735年)。蘇氏は側室の格格から嬪へと昇進しました。これは、皇后の富察氏や貴妃の高佳氏、妃の那拉氏らと並ぶ後宮の重要な地位への昇進を意味します。しかし、正式な冊封はまだ行われていなかったため、暫定的に蘇嬪と呼ばれていました。

同年9月には皇后や貴妃らと共に故人の霊前に参列するなど、後宮の中心的な存在として活躍し始めていました。

乾隆年間のさらなる昇進と皇子・皇女の誕生

乾隆2年(1737年)、蘇氏は純嬪へと昇進。同年12月には正式な冊封の儀式が行われました。

乾隆4年(1739年)。蘇氏の兄や甥が皇帝直属の軍団・正白旗に入りました。これは蘇氏の家族が皇帝の信頼を得て宮廷内で重要な地位を占めるようになったことを示しています。

同年12月には、乾隆帝の六男 永瑢を出産しました。

乾隆10年(1745年)、蘇氏は純貴妃へと昇進。同年12月には乾隆帝の四女 和碩和嘉公主を出産しました。

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純貴妃の病気と帰京について

純貴妃の病気

1759年8月16日(乾隆24年)。純貴妃は肺を患っていたので病気がちでした。乾隆帝は避暑地でゆっくりと静養するように第3皇子の永璋に護衛をつけて命じました。

純貴妃は咳や吐血することもありました。結核だったようです。

家族への影響

純妃の息子である三阿哥永璋も肺の病気にかかっていました。当時の記録によると永璋の病気のために特別な経典が選ばれるなど、家族に病気が広がっていたことが分かります。

純貴妃の娘である和碩和嘉公主も亡くなる前に肺や脾臓の病気を患っていたという記録が残っており、純貴妃の病気(おそらく肺結核)が家族に感染した可能性が考えられます。

純貴妃の最後

純貴妃の病状が悪化したので乾隆帝は息子の永璋に侍衛を伴わせ、ゆっくりと都へ送り返すよう命じました。

一方、乾隆帝自身は皇太后と共に別の場所へ移動しています。

1760年4月(乾隆25年3月)。純貴妃の病気はますます重くなったようです。

乾隆帝は第6皇子・永瑢と和碩和嘉公主の婚姻相手も決めました。死の前に子どもたちの結婚相手を決めるのは純貴妃の願いでした。

その後、純貴妃に 皇貴妃 の位が授けられました。清では寵愛を受けている貴妃の死期が近づくと皇貴妃の位を授けられることがありました。

1760年6月2日(乾隆25年4月19日)。純皇貴妃は死亡しました。享年47。

死後「純恵皇貴妃じゅんけいこうきひ」の称号が与えられました。

純皇貴妃の金の棺は静安荘の葬儀場にしばらく安置され、乾隆帝や皇后輝発那拉氏も供養のため訪れました。

1762年(乾隆27年)。埋葬されました。

1766年(乾隆31年)に死亡した継皇后輝発那拉氏も同じ陵墓に埋葬されました。

子供たちも病に倒れる

1760年8月26日。第3皇子の永璋も病気で死亡しました。享年25。結核でした。

あまりにも早すぎる死なので純皇貴妃の病気が伝染ったと考えられています。

第4皇女の和碩和嘉公主は1767年に死亡。享年22。母から病を受け継いだようです。

第6皇子の永瑢は1772年に死亡。享年46。母と同じくらいの寿命でした。健康であればもっと生きられたからもしれません。

皇子時代からの深い関係

純皇貴妃は乾隆帝がまだ皇子だったころに側室になり彼の子を産みました。乾隆帝が即位すると彼女は嬪になり。その後も順調に出世、貴妃の地位まで昇りました。出産数や位階の昇進の速さから、乾隆帝から非常に寵愛されていたことがわかります。

越えられない壁

でも純皇貴妃には越えられない壁がありました。それは彼女の身分です。

  • 清朝は満洲人が支配する国。皇后になるには満洲人の有力な家出身でなければいけません。
  • 純恵皇貴妃は漢人社会でも特権階級ではなく庶民出身です。

純皇貴妃には民族と階級の2つの壁があったのです。

でも乾隆帝の次の皇帝・嘉慶帝は令皇貴妃 魏氏の子です。令皇貴妃も漢人出身。包衣なので庶民の純恵皇貴妃よりは地位は上ですが。皇后の子がいないなら才能の一番高い皇子が選ばれましたから。純皇貴妃の子は能力で令皇貴妃の子には及ばなかったのでしょう。

皇貴妃という栄誉

それでも純恵皇貴妃は皇貴妃という高い地位にまで昇り詰めました。乾隆帝の深い愛情があったからだと思われます。

テレビドラマの純妃 蘇氏

瓔珞<エイラク>〜紫禁城に燃ゆる逆襲の王妃〜

2018、中国
 役名:蘇靜好 純妃→純貴妃  演:王媛可

最初は富察皇后の味方として登場。皇后の弟、富察傅恒にひそかに想いをよせますが拒絶されます。皇后が産んだ子の殺害に手を染め、皇后の死の原因を作ります。輝発那拉氏の手下になって陰謀に加担するようになります。しかし純妃が皇后の子を殺したのを瓔珞に知られ、復讐されてしまいます。

 

如懿傳〜紫禁城に散る宿命の王妃~

 2018、中国
 役名:蘇綠筠 純嬪→純妃→純貴妃 演:胡可

子供想いですが世間知らずなところもある妃として描かれます。ヒロイン烏拉那拉・如懿や海蘭とは親しくしていました。しだいに皇后になる野心を持ちますが病気で死亡します。

史実の純妃に近いのは、子供との関係が強調され最後は病気で死亡する「如懿傳」のほうでしょうか。瓔珞ではヒロイン瓔珞の復讐相手のひとりとして描かれます。

ドラマで純妃と烏拉那拉・如懿が親しくしています。史実では純妃の死後、皇后になった輝発那拉氏が葬儀に参加していること。輝発那拉氏と同じ陵墓に葬られていること。など、史実でもわりと縁のある関係でした。そのため、生前から親しい関係にあったと描きやすいようです。

 

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