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唐姫(弘農王妃)の史実:漢少帝劉辯の正妻の生涯とは

5 漢

唐姫(弘農王妃)は後漢の13代皇帝 少帝 劉辯の妻。

唐姫は名門の出身で、皇帝の妻に選ばれましたが。正式に皇后になる前に夫が皇帝の座を失ってしまいました。

董卓によって夫の少帝・劉辯はわずか15歳で生涯を閉じますが、その後も唐姫は困難な時代を生き抜きました。

この記事では、そんな唐姫の生涯を彼女の生い立ちから夫である劉辯との短い結婚生活、そして劉辯の死後、彼女が辿った道を紹介します。

この記事のポイント

  • 唐姫(弘農王妃)のプロフィールと家族
  • 劉辯の皇后になった経緯
  • 短い皇后生活
  • 劉辯の死後に彼女を襲った苦難。
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弘農王妃(唐妃)の史実

弘農王妃(唐妃)

弘農王妃(唐妃)

 

プロフィール

姓 :唐(とう)
名称:不明

国:漢(後漢)
地位:皇帝の妻→弘農王妃

生年月日:不明
没年月日:不明

日本では弥生時代になります。

家族

父:唐瑁
母:不明
兄弟:唐翔
夫:少帝 劉辯
子:なし

 

唐妃(弘農王妃)の血筋と生い立ち

唐妃は名門・穎川唐氏の出身。

祖父の唐珍大司空を務め、漢の霊帝を補佐していました。

大司空(だいしくう)
大司空は時代によって役目が違いますが、後漢では大臣のトップ三公のひとり。副丞相ともいいます。皇帝のそばにいて助言や補佐をする偉い人。

 

父は会稽太守唐瑁

母は不明。

唐妃の生年は不明です。

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短かった皇帝の妻としての期間

劉辯の妻になった経緯

189年(中平6年)。少帝 劉辯(りゅう・べん)が即位。

唐妃は名門の出身だったので、少帝 劉辯の正妻に選ばれました。

劉辯少帝 劉辯(りゅう・べん)
後漢の第13代皇帝。父・ 霊帝の死後。母の何太后と母方の伯父の何進(か・しん)によって14歳で即位。あまり有能ではないとされ、実権は大将軍・何進が握っているのでお飾りの皇帝でした。

 

しかし将軍・何進が朝廷内の敵対勢力に殺害されてしまいます。

その後権力を握ったのは董卓でした。董卓は劉辯を廃して「弘農王」に格下げすると、劉協を新しい皇帝にしました。

劉辯が皇帝に即位して廃されるまでわずか5ヶ月。

唐妃は劉辯の妻にはなったものの「皇后」に任命される間もなく、あっというまに劉辯が皇帝の座を失ってしました。

その後も弘農王 劉辯の妻として暮らしたものの、彼女には何の称号も与えられず立場は中途半端なままでした。

夫の 劉辯が殺害される

董卓の軍勢はただの野盗も同じ、都で略奪、暴行、殺人を繰り返しました。

初平元年(190年)。董卓の横暴に我慢できなくなった山東の諸侯たちが董卓を討伐するために挙兵。すると董卓は彼らが劉辯を担いで自分を討伐するのを恐れ、先手を打って劉辯を殺そうと決意。

劉辯は董卓によって監禁されてしまいます。さらに中書令の李儒が毒酒を持ってやってこう言いました。

李儒「この薬を飲めば邪を祓い、災いを避けられます」

さすがに劉辯も殺されると分かりました。

劉辯「私は病気ではない。お前たちが私を殺そうとしているだけだ」と言い、酒を飲むのを拒否。

それでも李儒は無理やり劉辯に飲ませようとします。ついに弘農王は死を覚悟。最後に妻の唐姬や宮女たちと宴を開いたのでした。

その席で劉辯は哀しく歌を詠みました。

天道易兮我何艱!
棄萬乘兮退守蕃。
逆臣見迫兮命不延、
逝將去汝兮適幽玄!

作:劉辯

日本語訳
「天の命令は変わりやすく、なぜ私にこんなに苦難があるのか!
帝の位を捨てて辺境に行かされ、
今は逆臣に迫られ、命が断たれようとしている。
今、私はお前たちと離れ、幽玄の地へ行くのだ!」

そして唐姬に舞を踊るよう言いました。

すると唐姬は袖を上げて次の歌を詠みました。

皇天崩兮後土頹
身為帝兮命夭摧。
死生路異兮從此乖
柰我煢獨兮心中哀!

作:唐姬

日本語訳
「天が崩れ、地が砕け
皇帝の身でありながら命は早くも尽きようとしています。
生と死の道が分かれ、永遠に会うことができなくなります。
私はどうしようもない孤独の中で悲しまないでいられましょうか!」

弘農王はこの歌を聞いて静かに涙を流し、その場にいる者たちも皆、喉を詰まらせて泣きました。

弘農王は唐姬に「卿は帝の妃であり、これから臣下や民の妻となることはない。自らを大切にしよう、ここで永遠の別れとしよう!」

と言って毒酒を飲み、息絶えまえました。この時、彼は15歳でした。

 

劉辯の死後は実家に戻る

弘農王 劉辯が亡くなった後、唐姬は故郷の颍川(現在の河南省禹州市)に戻りました。

父の唐瑁は唐姬を再婚させようとしましたが、唐姬は再婚を拒否しました。

その後、李傕が長安を攻め落とし、周辺の地域を略奪。唐姬は捕らえられてしまいます。李傕は唐姬を自分の妻にしようとしましたが、唐姬は拒否し続けました。唐姬は生涯 少帝劉辯の妻であることを誓ったのです。

弘農王妃になって宮中に戻る

やがて尚書の賈詡がこのことを知り、献帝劉協に上奏。献帝はそれを知ってたいへん悲しみました。そして唐姫を宮中に迎え入れると「弘農王妃」の称号を与えたのでした。

その後、弘農王妃がどうなったのかは記録がないので分かりません。

宮中にいたかもしれませんし、ひっそりと劉辯を弔って生きていたのかもしれません。その献帝も曹操・曹仁と対立して廃されてしまいます。

弘農王妃の行方は歴史の闇に消えてしまいます。

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唐姫(弘農王妃)のまとめ

唐姫は名門・穎川唐氏の出身。後漢の少帝・劉辯の正妃となりました。

でも董卓の乱により劉辯が廃され、わずか5ヶ月の短い帝位に幕を閉じます。劉辯は董卓に殺害され、唐姫は故郷に戻りますが、その後も劉辯への想いを断ち切れず、生涯を独身で過ごしたと伝えられています。

彼女も混乱の時代の犠牲になった女性のひとりでした。

ドラマの弘農王妃

曹操 2015年、中国 演:馬丹旎
三国志・秘密の皇帝 2018年、中国 演:董潔 役名:唐瑛

 

 

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