燕の昭王・姫職(きしょく)は春秋戦国時代の燕の国王。
「隗より始めよ」の故事でも知られる人物です。
姫職は無能な父王のあとを継ぎ、内乱と他国の侵攻によって疲弊した国を立て直すという困難な状況に立たされました。
姫職は人材登用や改革を断行。郭隗の助言を聞き入れ、「隗より始めよ」という故事に象徴されるように、人材の獲得に力を注ぎました。
楽毅をはじめとする数々の優秀な人材が集まり、燕は短期間で軍事力と国力を飛躍的に向上させます。そして強大な隣国・斉を打ち破り、一時はその領土の大半を支配下に置くという快挙を成し遂げました。
史実の昭王 姫職はどんな人物だったのか紹介します。
昭王 姫職の史実
プロフィール
姓 :姫(き)
氏 :燕(えん)
名称:職(しょく)
国:燕(えん)
地位:燕の国王
生年月日:不明
没年月日:紀元前279年
在位:紀元前312~紀元前279年
日本では弥生時代になります。
家族
母:不明
子供:恵王
時代背景:戦国時代の燕
燕昭王姫職が生きた時代は、中国の歴史でも特に動乱が続いた戦国時代です。
この時期、各国が互いに領土を奪い合う中で、燕国も例外ではありませんでした。特に斉国との対立が激化し、燕国は一時的に斉に攻められて滅亡の危機に瀕しました。
また、父である燕王噲が宰相子之を盲信し、禅譲を試みたことで国内の政局も混乱を極めました。このような背景の中、姫職は未来の君主としての資質を培っていくことになります。
おいたち
燕の昭王 姫職は中国の戦国時代。燕国の庶子として生まれました。姫職(き・しょく)の生年は不明。
父は燕王 噲(かい)
姫職は燕王噲の庶子でした。
兄に太子の姫平(き・へい)がいます。
姫職の幼少期には特に目立った活動はなく、平凡な子供時代を過ごしたとされています。
時期は不明ですが姫職は人質として韓に送られました。
無能な父親のせいで内乱
燕王噲は政治に興味を持たず、国の実権を宰相の子之(しし)に任せきりにしていました。
燕昭王の父 燕王噲は、宰相の子之(しし)を非常に信頼していました。この信頼は次第に盲信に近いものとなります。
紀元前315年。燕王噲は子之の助言を受け、堯舜(ぎょうしゅん)のように子之に王位を譲ろうとしました。
これに太子 姫平たちが強く反発。内乱が発生します。この内乱は国政を混乱させ、最終的には外敵である斉の侵攻を招く結果となりました。
燕の一時的な滅亡
そんな中、紀元前314年。斉の湣王(びんおう)が「王子の職を助ける」という名目で燕に侵攻。燕王噲と子之は殺害され、燕は一時的に滅亡。その領土は斉に占領されました。
燕 昭王の即位
紀元前311年。趙武霊王の仲介で韓で人質になっていた公子職は韓から燕に戻ります。斉に服属する条件で即位が許可されました。屈辱に満ちた状況から国を再興させ、斉への復讐を果たすことが昭王の目標となりました。
燕昭王は燕の国を強くしようと決心。有能な人を探していましたが、なかなか見つかりません。するとある人から郭隗(かく・かい)という老大臣が非常に見識があるので彼に相談した方がいいと教えてもらいました。
隗(かい)より始めよ
燕昭王は郭隗(かく・かい)を訪ね
「斉が我が国を侵略した時の恥は忘れられません。しかし今の燕は復讐するには弱すぎます。 この恥辱を晴らしてくれる賢者がいれば、私はむしろその人に仕えたい。 そのような人材を推薦していただけませんか?」
と言いました。
すると郭逵は死んだ馬の骨を買う話をしました。
「馬の骨を買う」の故事
昔、ある国の王が千里を走る馬を欲しがっていました。彼は部下に探させましたが3年間見つかりません。
あるとき一人の大臣が遠くに貴重な千里馬がいるので千両の金で千里馬を買うことができると言います。王は大喜びで大臣に金を持たせて馬を買いに行かせました。
ところが大臣が着いたときには馬はすでに病気で死んでいました。 大臣は手ぶらで帰るのは大変だと思い、持ってきた金の半分を出して馬の骨を買いました。
大臣が馬の骨を持って帰ると王は激怒「生きた馬を買って欲しかったのに、誰が役立たずの馬の骨を買うために金を使えと言ったのか!」と言うと。
臣下は「あなたは死んだ馬にさえ喜んで金を払うと人々の間に広まっています。生きた馬が届かないと心配する必要はありません」と言いました。
それを聞いた王は納得して大臣を責めるのを止めました。
人々の間に「王は本気で千里を走る馬を欲しがっているのだ」と噂が広まり。
1年後には本当に千里を走る馬が届けられました。
これが「馬の骨」の故事です。
郭逵が言いたかったこと
その話をしたあと。郭逵はこう続けました。
「もし王が有能な人材を集めたいのなら、私のようなつまらない者を馬の骨にしてみたらいかがでしょうか?」
燕昭王はこの話に感激。すぐに郭逵のために立派な家を建てさせ郭逵を師としました。
すると
「郭逵でさえ採用されたのだ。燕の昭王は人材登用に熱心だ」と評判が広まり。
各地から有能な人材が集まりました。有名な学者だけでなく斉に恨みをもつ者、斉の情報詳しい者、戦いに長けた者なども採用して厚遇しました。
その中には将軍の楽毅や蘇代などを採用しました。
この逸話から「隗(かい)より始めよ」(大きな事をするためには、小さなことから始めよ)という諺がうまれました。
国内改革
楽毅は燕昭王から政治と軍事を任されました。当時の燕は法律がうまく機能しておらず、官吏の不正がはびこっていました。楽毅は法律を作り官吏の審査と評価を強化するように王に進言。「縁故」や「名誉」によって官吏を選ぶ伝統をやめて能力で官吏を任命するようにしました。
軍事面では楽毅は戦術と規律の訓練に力を入れ、燕軍の戦闘力を高めました。
昭王はまた、孤児の問題にとりくんだり、葬儀を行う人を慰め、子供が生まれた夫婦には人を遣わしてお祝いしたりして人々の支持を集めました。
斉への復讐
このころ斉の湣王は各国を攻撃。領土を広げていました。そのため各国から恨まれていました。また国内でも民衆の要求を聞かず。人々の心は離れていきました。
燕は昭王のもとで団結して斉に復讐する機運が高まっていきました。しかし斉は大国なので燕だけでは対抗できません。
そこで昭王は楽毅の進言を受け入れて燕を中心に韓・魏・趙・秦の5カ国で連合軍を結成しました。
紀元前284年。昭王はは楽毅を総司令官に任命。5カ国連合軍は斉に攻め込みました。長引く戦争で斉の兵士の士気は低く。連合軍は斉軍を済西で破りました。
楽毅は秦と韓の軍に褒美を与えて帰らせ。趙の軍に河田を攻め、魏軍には宋の地を攻めるように命じ、燕軍はそのまま斉の都・臨淄に突入し、一気に臨淄を占領しました。斉の湣王は莒へ逃げました。
昭王は戦勝報告に大喜び。自ら臨淄に行って楽毅を褒め称え「昌国君」の称号を与えました。
楽毅は昭王の許可を得てわずか5年ほどで斉の70余りの都市を制圧。湣王のいる莒と田単のいる即墨を除く全ての都市を支配下に置きました。
斉の湣王が抵抗を続け、戦いは長引きましたが。昭王は楽毅を信じて任せました。楽毅がなかなか莒と即墨を制圧できないので彼を批判するものがいましたが。昭王は楽毅を批判する者を叱りつけ、楽毅に安心して作戦を続けるように使者を送りました。
やがて楽毅は淖歯を味方に引き込むことに成功。湣王は淖歯の裏切りによって命を落としました。
斉湣王の死後、法章(襄王)があとを継ぎ抵抗を続けました。
斉との戦いが続く中。紀元前279年に昭王が病死。太子の戎人が恵王として即位しました。
昭王の没後
燕の昭王の時代。燕は最盛期を迎えました。
しかし、後をついだ恵王は楽毅とは仲が悪く。田単の計略に引っかかり、楽毅を処刑しようとしました。楽毅は趙へ亡命。恵王は新しく騎劫を将軍にしましたが、騎劫は楽毅ほど有能ではなく燕軍は弱体化。昭王時代に奪った都市は斉に奪還されてしまいます。次第に燕は衰退していくのでした。
テレビドラマ
ミーユエ 2015年、中国 演:秦浩博 役名:公子職(燕昭王)。
始皇帝・天下統一 2017年、中国 演:孫栄。
キングダム・戦国の七雄 2019年、中国、 演:王勁松
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