王皇后はなぜ武則天に敗れたのか?唐・高宗の正室、悲劇の生涯を解説

王皇后 5.3 唐の皇后・側室
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王皇后は唐の第3代皇帝・高宗の最初の皇后です。

しかし夫の寵愛を失い、後に中国史上唯一の女帝となる武則天によって残酷な最期を遂げました。

彼女は一体どのような人物で、なぜ権力争いに敗れてしまったのでしょうか? この記事では名門出身の王皇后がたどった栄光と悲劇の生涯、そして最大のライバルであった武則天との熾烈な対立の経緯を史実に基づき詳しく解説します。

 

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王皇后の史実

王皇后はどんな人?

王皇后は、唐王朝が栄えた時代、第2代皇帝・太宗から第3代皇帝・高宗の治世を生きた女性です。

生年月日:不明
没年月日:655年

姓 :太原王氏
名称:不明

国:唐
地位:普王妃→皇太子妃→皇后

 

家族

父:王仁祐
母:河東柳氏
夫:高宗 李治

実子:なし
養子:李忠 

 

時代背景: 王皇后が生きたのは、日本では飛鳥時代にあたる唐王朝の初期。安定した治世を築いた太宗の時代から、高宗の時代へと移り変わる時期でした。

 

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皇后への道:高宗との結婚と後宮での立場

名門の出身と入内

王皇后は北朝の名門、太原王氏の分家・祁縣王氏(きけんおうし)の出身。

高祖父の王思政は西魏で尚書左僕射を務めました。
父は王仁祐(おう・じんゆう) 羅山県の県令(知事)を務めていました。

母は河東柳氏。

高祖李淵の妹・同安大長公主(同安公主)は王氏の叔祖母(祖父の姉妹)です。

王氏は大変美しかったので、同安公主が太宗 李世民に紹介。太宗は彼女を息子の晋王(しんのう)・李治(後の高宗)の妃に選びました。

643年。李治が皇太子になると王氏は皇太子妃となり、彼女の一族も要職に就きました。父の王仁祐も陳州刺史、伯父の柳奭(りゅう せき)は兵部侍郎に任命されています。

王氏の地位は確かなものに見えました。

 

皇后となるものの、寵愛は蕭淑妃へ

王皇后は容姿は美しかったものの、真面目で堅い性格だったとされます。

一方、高宗が皇太子時代に迎えた側室の蕭氏(しょうし、後の蕭淑妃は、美しくて歌や踊りが上手く、しかも甘え上手でした。そのため後の蕭氏は高宗の寵愛を一身に受けました。648年には高宗の最初の男子となる李素節(り そせつ)を出産します。

649年に高宗が即位。翌650年に王氏は正式に皇后となりました。父や母には国公・国夫人の爵位が与えられ、伯父の柳奭は中書令(宰相職の一つ)に昇進します。しかし高宗の寵愛は依然として蕭淑妃に注がれていました。

真っ直ぐな性格で夫の機嫌を取るのが苦手だった王皇后は、高宗から次第に相手にされなくなり、後宮で傲慢に振る舞う蕭淑妃への嫉妬と危機感を募らせていきます。自身に子供がいなかったことも彼女の立場を不安定にする原因のひとつでした。

唐の皇帝には四妃(四夫人)がいて淑妃の他に貴妃、徳妃、賢妃がいます。高宗の時代にも四妃はいました。蕭淑妃は「貴妃」ではないので側室の中で一番地位が高いわけではありません。でも後宮で蕭淑妃に対抗できる人はいませんでした。
 
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運命の転換点:武則天の登場と対立

蕭淑妃打倒のために共闘

蕭淑妃に対抗するため、王皇后は意外な人物を味方に引き入れます。それが、かつて太宗の後宮にいた武媚娘(ぶびじょう)、後の武則天でした。

武媚娘は太宗の死後、感業寺という尼寺に入っていましたが、高宗は彼女に惹かれていました。『資治通鑑』によれば、王皇后は高宗が武媚と密会していることを知り、蕭淑妃から高宗の関心をそらすために、武媚娘を後宮に呼び戻すことを勧めたとされます。

一方、『新唐書』では太宗から譲られたと書かれています。

後宮に入った武媚は当初は王皇后に従順な態度を見せ、王皇后も高宗の前で彼女を褒めました。王皇后の狙い通り、武媚娘の登場によって蕭淑妃への寵愛は衰え、高宗は攻撃的になった蕭淑妃から完全に心が離れていきます。

 

寵愛の独占と対立の激化

でも王皇后の目論見は外れました。蕭淑妃が寵愛を失っても、高宗の寵愛が王皇后に戻ることはなく、全て武媚娘(この頃、子を産み昭儀に昇進)へと注がれるようになったのです。

寵愛を失った王皇后と蕭淑妃は、今度は二人して武昭儀(武則天)と互いに批判し合うようになりました。でも高宗は武昭儀の言葉しか信じませんでした。

さらに王皇后の母・柳氏や伯父・柳奭が後宮に出入りするときの偉そうな態度も、高宗が王皇后を嫌がる理由のひとつなったとも言われています。

一方で、武昭儀は皇后や淑妃に仕える者たちにも金品を配って情報を集め、それを巧みに利用して高宗に伝え、王皇后たちの立場をさらに悪化させていきました。

 

立太子問題:養子・李忠と地位安定の策

実子のない王皇后は自分の地位を安定させるため、伯父・柳奭の進言に従い高宗の長男 李忠を養子に迎えました。

李忠は高宗と身分の低い宮人・劉氏の間に生まれた子供。長男でしたが母の出自が低いので皇太子にはなっていませんでした。

王皇后が李忠の養母になり、彼を皇太子にすれば、皇后の地位も安泰になると考えたのです。

柳奭は長孫無忌(ちょうそん むき)ら重臣たちにも根回しを行い、652年に李忠は皇太子になりました。

でも、これも後に武則天側につけこまれる要因となっていきます。

 

皇后廃位と悲劇的な最期

王皇后と武則天の対立は、ついに決定的な局面を迎えます。

娘殺害事件の濡れ衣

654年。武昭儀は女児を出産。王皇后がお祝いに訪れた直後、その赤ん坊が急死するという事件が起こりました。

『資治通鑑』によれば、武昭儀が自ら娘を殺し、王皇后が部屋を訪れた後に騒ぎ立てて、皇后に罪を着せたものだとされています。侍女たちも皇后の来訪を証言し、激怒した高宗は王皇后の廃位を考えますが、長孫無忌ら大臣たちの強い反対に遭い、この時は実現しませんでした。

でも逸話の真偽については諸説あり。武則天を悪女として描くための創作という見方もありますが、幼い子供が亡くなることは当時珍しくなく、その死が政治的に利用された可能性は高いです。

巫蠱事件の発覚

追い詰められた王皇后は、655年、母の柳氏と協力して呪術(巫蠱)によって武昭儀を呪いました。でもバレてしまいます。

激怒した高宗は柳氏の入内を禁じ、伯父の柳奭も中書令を解任され、王皇后はさらに窮地に立たされました。

廃位決定と大臣たちの反応

655年。李義府(り ぎふ)武昭儀派の官僚王皇后廃位を公然と主張し始めます。高宗は重臣たちを集め、皇后に実子がいないことを理由に武昭儀を皇后に立てる意向を示しました。

長孫無忌や褚遂良(ちょ すいりょう)は猛反対しましたが、重臣の李勣(り せき)は

「これは陛下の家庭内のことです。我々部外者が口を出すべきではありません」

と述べ、高宗はこれを賛成と受け取りました。

ついに655年10月。王皇后と蕭淑妃は「毒を盛ろうとした」という罪で后妃の位を剥奪され、庶人に落とされました。

宮中の一室に幽閉され、一族も流罪となり、王氏の一族は「蟒(うわばみ)」、蕭氏の一族は「梟(ふくろう)」という不名誉な姓に変えられました。

そして、武昭儀が新たな皇后となることが決定しました。

幽閉と残酷な処刑

その後、高宗は幽閉された二人を哀れに思い様子を見に行きます。窓も塞がれ、食事用の小穴しかない劣悪な環境にいた王氏は涙ながらに「もし陛下が昔の情けを覚えておいでなら、私たちをここから出して『回心院』と名付け、更生を願ってください」と訴えました。

高宗はこれを承諾しようとしますが…。

このことを知った武后(新たに皇后となった武則天)は激怒。

二人をそれぞれ杖で100回打たせた後、手足を切断し、生きたまま酒甕(さけがめ)の中に投げ込み、「これで骨の髄まで酔えるだろう」と言い放ったと伝えられています(『資治通鑑』『新唐書』)。

二人は数日後に絶命したとされますが、その凄惨な描写から後世の創作とも言われます。しかし、二人が残酷な方法で殺害されたことは、歴史的事実と考えられています。

以下に主要な歴史資料から王皇后がどのように殺害されたのか比較してみましょう。

主要な歴史的資料における王皇后の処刑に関する記述の比較

資料名

廃位の日付 (旧暦)

処刑の記述

処刑方法

命令者

旧唐書

永徽六年十月

あり

縊殺(絞殺)

武昭儀(武則天)

新唐書

永徽六年十月己酉
(11月16日)

あり

鞭打ち100回、手足を切断後、酒甕に入れられて死亡、
その後斬首

武則天

資治通鑑

永徽六年十月己酉
(11月16日)

あり

鞭打ち100回、手足を切断後、酒甕に入れられて死亡

武則天

 

武后はこの一件の後、現場に近づくことを恐れ都を長安から洛陽に移したとも言われています。後に武則天が退位し、中宗が復位すると王氏と蕭氏の名誉は回復され、姓も元に戻されました。

 

まとめ:王皇后の悲劇が示すもの

名門に生まれ、唐の皇后という最高位にまで上り詰めた王皇后。でも夫・高宗の心をつなぎとめることができず、類まれなる才覚と野心、そして冷徹な計算高さを持つ武則天との権力闘争に敗れ、非業の死を遂げました。

彼女の生涯は皇帝の寵愛が后妃の運命を左右する後宮の厳しさ、そして唐王朝における激しい権力闘争の一端を私たちに示しています。

王皇后自身の性格や行動にも要因はあったかもしれませんが、武則天という強大なライバルの出現が彼女の運命を決定づけたと言えるでしょう。

参考文献

『旧唐書』(列伝第一 后妃上 高宗廢后王氏)
『新唐書』(列伝第一 后妃上 高宗廢后王氏)
『資治通鑑』(巻一百九十九、巻二百 唐紀十五、十六)

 

ドラマ

武則天 2014年、中国 演:施詩 役名:王玉燕
風起花抄 2021年、中国 演:潘悅 役名:太子妃

 

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