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奇皇后は実在した!ドラマと違う高麗出身皇后の実話

奇皇后は高麗出身の女性で元の皇后になった実在する人物です。

元(モンゴル帝国)の15代皇帝(ハーン)・恵宗トゴン・テムル(ドラマ「奇皇后」ではタファン)の妃になりました。

この記事では歴史書に基づいて実在した奇皇后の姿を解説します。ドラマと史実の違いを知ると、奇皇后の物語をもっと楽しむことができます。

あなたの知らない奇皇后の姿を紹介しましょう。

 

奇皇后

奇皇后 ドラマガイドより

 

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奇皇后は実在した人物

歴史書にも登場する奇皇后

ドラマや物語で語られることの多い奇皇后ですが、彼女は確かに歴史上に存在した人物です。

奇皇后の実在は「元史」「新元史」「高麗史」などの歴史書で確認できます。彼女は高麗出身で元の恵宗トゴン・テムルの妃となり皇后にまで上り詰めました。

正式名は「完者忽都皇后奇氏」1)といい複数の歴史書に記録されていることから、実在した人物であることが分かります。

奇皇后の基本情報

  • 生年月日: 1315年ごろ?
  • 没年月日: 1369年あるいは1370年。6月15日。
  • 名前: 奇洛(キラク)
  • 称号: 完者忽都(オルジェイ・クトゥク)皇后
  • 本貫: 幸州奇氏(コウシュウキシ)
高麗では35代恭愍王の時代。

日本では鎌倉時代になります。

家族

  • 父: 奇子敖(キ・ジャオ)
  • 母: 不明
  • 夫: 恵宗トゴン・テムル(元15代皇帝、順帝ともいいます)
  • 子供: アユルシリダラ

 

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実話に基づいたおいたち

奇皇后の家柄:高麗の名門出身

「元史」では奇皇后の家柄は「卑しかった」とされていますが、実際には高麗の貴族出身です。

12世紀後半。元に支配される前の高麗では武臣が力を持つようになり、武臣政権が誕生したことがあります。このころ奇皇后の家系・幸州奇氏は武臣の家系として勢力を拡大しました。

一族は何人もの宰相を出し。奇皇后の祖父の奇琯は財政を司る三司右使、軍を統括する大将軍を務めました。

父の奇子敖は役人の推薦制度により役人となり、最終的には宣州の守備隊長にまでなりました。

ドラマ「奇皇后」のキ・ヤンの父 キ・ジャオも高麗の武将。巡軍万戸府の長官です。そういった意味ではは史実に近いかもしれません。

 

奇皇后の誕生

高麗幸州(現在の高陽市徳陽区西南)で生まれました。奇皇后は奇子敖の末娘でした。詳しい生年は不明。従兄の生年から1309年以降の生まれと考えられています。

奇皇后が貢女として元に送られた経緯

奇皇后は家族が高麗 忠恵王に殺害された後、高麗の貢女として元朝に献上されました。

至順4年(1333年)に入元したと推測する学者もいます2)

貢女とは?高麗の苦しい立場

高麗が元に支配されていた時代、若い女性を「貢女」として元に送る制度がありました。高麗は元の従属国だったので、服従の証として女性を送る必要があったのです。

貢女に選ばれることは故郷を離れ異国で一生を過ごすことを意味しました。家族にとっても悲劇です。特に身分の高い家では名誉を傷つける行為とされ、娘を早く結婚させる習慣も生まれました。

高麗出身宦官との出会い

元の宮廷に送られた奇皇后は当初、宮廷に入り茶を供する宮女として働いていました。

奇皇后の運命が大きく変わったのは、禿満迭児(とくまんてつじ:高麗での姓は鄭)という高麗出身の宦官との出会いでした。

禿満迭児は徽政院で働いていましたが、恵宗トゴン・テムルに仕える女性として奇氏を推薦。彼女は恵宗にお茶を出す役目を担うことになりました。

徽政院(きせいいん)
皇太后の世話をする部署。奇皇后は最初は皇太后に仕えていたことになります。

奇氏は「聡明で機転が利く」性格だったので恵宗の寵愛を受けるようになりました。

 

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ダナシリ皇后との確執(ドラマと違う実話)

恵宗の寵愛を受けるまでの経緯を史実に基づいて解説

恵宗トゴン・テムル皇后ダナシリとは仲が悪く、孤独な日々を送っていました。そんな時、恵宗は奇皇后と出会い彼女の美貌と聡明さに惹かれました。

恵宗の寵愛を知ったダナシリ皇后が激怒して奇氏を呼びつけ、鞭で全身傷だらけになるまで打ったこともあります

恵宗の力はまだ弱く何も言いませんでしたが、奇氏を深く哀れみダナシリをひどく憎むようになりました。

なぜダナシリ皇后が強かったのか?

ダナシリ皇后の父 エル・テムル元の権力者。恵宗の即位前に病死していましたが、その息子タンキシュがあとを継ぎ、一族は大きな力を持っていました。

その勢力を背景にダナシリ皇后も宮廷内で強い影響力を持っていたのです。

ダナシリ皇后の失脚

しかしエル・テムルの死後。軍閥で力を付けたバヤンでした。しだいにタンキシュの力は弱くなっていきます。

元統三年(1335年)。ダナシリ皇后の兄タンキシュが反乱を起こしましたが丞相バヤンが鎮圧。タンキシュたちダナシリ皇后の一族は処刑されました。ダナシリは身分を庶民に落とされ流刑地に向かう途中、バヤンによって殺害されました。

 

第一皇后へ!奇皇后の権力掌握

宰相バヤンとの対立!皇后冊立の壁

エル・テムル一族の没落後、元の朝廷で力を持ったのがバヤンです。

恵宗は奇氏を皇后にしようとしました。しかしバヤンが強く反対したので断念しました。

バヤンが奇皇后の皇后冊立に反対した理由

元朝では正宮皇后はコンギラト部の女性が務めるのが慣例でした。伝統を守ろうとする丞相バヤンが異民族出身の皇后に反対するのも当然かもしれません。そこで恵宗はコンギラト氏のバヤン・クトゥクを正宮皇后にしました。

恵宗の長男誕生!アユルシリダラの誕生がもたらしたもの

でも奇氏は引き続き恵宗の寵愛を受けました。至元五年(1339年)の冬には恵宗の長男であるアユルシリダラを出産します。

奇皇后への恵宗の寵愛はさらに深まり、宮廷内での勢力を拡大していきました。

策略と裏切り!バヤン失脚の舞台裏

恵宗はバヤンを疎ましく思っていました。ちょうどバヤンの甥であるトクトが伯父を排除しようと恵宗に接近します。

1340年。恵宗はトクトと手を結び、バヤンが宮廷を留守にした間に挙兵しました。バヤンは失脚し流罪になり、流刑地に向かう途中で病死しました。

奇皇后、第二皇后へ昇格!一族も厚遇

1340年4月、バヤンを失脚させたあと、自ら政治を行うようになった恵宗トゴン・テムルは奇氏を第二皇后にしました。彼女のために新しい宮殿も与えています。

恵宗はすでに故人になっている奇皇后の父に王の称号を与えました。奇皇后の母や兄弟にも役職や称号を与え、その家門を厚遇したのです。

奇皇后のイメージ戦略

奇皇后は自らを「賢い皇后」として印象付けるために積極的にイメージ戦略を行いました。暇さえあれば女性の心得や歴史書を読み歴代の賢い皇后を模範としたと言われています。

また各地から献上された珍しい食べ物はまず先祖を祀る廟に供えてから口にしました。

息子の教育と政治への関わり

奇皇后は息子のアユルシリダラに儒教を学ばせました。

また高麗から多くの美女を呼び寄せ、有力な政治家たちと親交を深めました。特にトクト(脱脱)という政治家とは非常に親密な関係を築き、彼を宰相に復帰させるよう皇帝に働きかけました。

 

揺れる元朝と奇皇后の思惑

元の衰退と紅巾の乱:内乱の時代へ

しかし元の宮廷で権力争いをしている間に、各地で災害や疫病が発生しました。有効な対策を打てない朝廷に人々の心は離れていきます。

1351年には最大規模の反乱である紅巾の乱が起こり、全土に拡大しました。恵宗はトクトに反乱鎮圧を命じます。

1353年にはアユルシリダラが皇太子になりました。しかしトクトに恨みをもつ重臣の哈麻(はま)の策略でアユルシリダラ・奇皇后とトクトの仲が悪化します。

哈麻の策略とトクトの追放:宮廷の闇

1354年。再びトクトが反乱鎮圧のため遠征すると、哈麻がトクトに弾劾を起こしてトクトは追放されました。有力な司令官と中央軍を失った元朝は以後、地方の軍を頼ることになります。

政治に意欲を失った夫への諫言と夫婦関係の悪化

このころから恵宗は政治に意欲を失っていきました。奇皇后は夫の恵宗が木工細工や踊り子に夢中になるのを諫めました。でも恵宗は彼女の言葉に耳を貸さず、怒って二ヶ月間も彼女の宮殿を訪れませんでした。

高麗の一族殺害!奇皇后の復讐心

奇皇后の故郷である高麗でも彼女にとって不幸な出来事が起こります。

1356年。高麗の恭愍王によって奇皇后の兄を含む一族が殺害されたのです。恵宗は当初、高麗を討伐すると宣言しました。しかしすぐに高麗王を赦免しました。これは当時の元が国内の混乱で手一杯だったからです。

 

奇皇后と息子への譲位計画

宮廷内の権力闘争

1359年、奇皇后は息子の愛猷識理達臘(アユルシリダラ)と共に政治を顧みない恵宗トゴン・テムルから皇位を奪い息子を皇帝にしようと企て始めます。

アユルシリダラの即位に反対する重臣の排除を計画します。しかし計画が漏れて重臣側が先手を打ち、奇皇后側の人物を失脚させました。その後も奇皇后側と反対派が対立。奇皇后派は徐々に反対派の重臣を排除していきました。

恵宗の形骸化が進む

奇皇后と息子の行動により恵宗は次第に力を失い、皇太子アユルシリダラが実権を握るようになりました。

高麗遠征を命令

1363年。奇皇后は息子を唆し自分の実家の復讐のために高麗に出兵させました。

高麗の恭愍王(コンミンワン)は、奇皇后の従兄の李公遂(イ・ゴンソ)を派遣し、彼女を説得しようとしました。奇皇后は一時心を動かされましたが、最終的には高麗討伐を決意しました。

アユルシリダラの主導の下、恭愍王は廃位され徳興君塔思帖木児(トクフングン・タステモル)が新しい高麗王として擁立されました。

奇皇后の一族の女性が生んだ王族の三宝奴(サンボノ)が皇太子となり、1万の元軍が高麗人の崔濡(チェ・ウ)に率いられ、1364年1月、徳興君を護送して高麗に侵攻しました。

当初は勝利し宣州を占領しましたが、その後、高麗の将軍である崔瑩(チェ・ヨン)に獺川で敗北しました3)

ボロト・テムルとの対立

高麗での敗北後。奇皇后はアユルシリダラの即位にはボロト・テムルが邪魔だと考え、次の標的をボロト・テムル(孛羅帖木児)という軍閥に定めました。

権力闘争の激化

1359年3月。アユルシリダラはボロト・テムルが横暴な振る舞いをしていること等を理由に彼の軍の権限を剥奪しようとしました。

しかしボロト・テムルも「皇帝の側近にいる悪者を排除する」という名目で大都に向けて軍を進めました。

これに対しアユルシリダラはココ・テムル(拡廓帖木児)にボロト・テムル討伐を命じました。

奇皇后とボロト・テムルの対立

ところがココ・テムルが出兵する前に、ボロト・テムルの大軍が大都に迫ったのでアユルシリダラは逃亡。彼の側近は皇帝恵宗(トゴン・テムル)によってボロト・テムルに引き渡され処刑されました。

ボロト・テムルは一旦軍を撤退。するとアユルシリダラが再び大都に戻り、ココ・テムルにボロト・テムル攻撃を命じました。しかしボロト・テムルは逆に大都に乗り込みアユルシリダラは敗北、ココ・テムルの陣営に逃亡しました。

1359年7月。ボロト・テムルは大都に入り監察御史の武起宗を唆し奇皇后を非難する上奏文を提出させ、奇皇后を宮廷から追放しようとしました。しかし恵宗は認めませんでした。

奇皇后の幽閉と復帰

1365年3月。ボロト・テムルは偽の勅命を出し奇皇后を宮廷から追放。厚載門外の施設に幽閉し、部下に監視させました。

同年4月、ボロト・テムルは彼女を宮廷に戻して皇后の印章を奪い、偽の書簡を作成してアユルシリダラを呼び戻そうとしましたが、その後、再び彼女を幽閉しました。

奇皇后はボロト・テムルに取り入るために絶えず美女を贈りました。彼女がボロト・テムルと関係を持ったという噂まで流れました。その後、宮廷に戻ることができました。

恵宗の反撃とボロト・テムルの暗殺

このころ恵宗トゴン・テムルはボロト・テムルの横暴な振る舞いにうんざりしていました。

また、ボロト・テムルがココ・テムルに敗れたこともあり、恵宗は奇皇后が宮廷に戻ってから約10日後の7月29日に人を送りボロト・テムルを暗殺しました。そして息子のアユルシリダラと和解しました。

奇皇后とココ・テムルの対立

アユルシリダラが都に戻ると奇皇后はココ・テムルの軍を利用して恵宗に譲位を迫ろうとしました。

しかしココ・テムルは反対。都の郊外で軍を解散して陣営に戻ってしまいました。

そのため、奇皇后とアユルシリダラは再びココ・テムルと敵対することになり、元朝の内戦は続きました。

奇皇后の昇格

このころまで恵宗の第一皇后はバヤン・クトゥクでした。バヤン・クトゥクは奇皇后に寛容だったので、大きな対立はなかったと言われています。

ところが1365年にボロト・テムルが都に入り混乱する中。バヤン・クトゥク皇后が病に倒れ、8月に亡くなりました。

同年12月。奇皇后が第一皇后に昇格。奇皇后は元朝で民族出身で初めて第一皇后になった人物です。

第一皇后になったあと、奇皇后がバヤン・クトゥクの宮室に行くと破れを繕ったものがありました。

奇皇后は

「第一皇后がこんな服を着ていたのか」

と笑ったといいます1)

皇太子の母になった奇皇后は第一皇后よりも贅沢をしていたのです。

 

奇皇后の最後

明朝の建国と元の北への逃亡

元の宮廷内で内戦が続く中、江南で勢力を拡大した朱元璋(しゅ・げんしょう)が1367年10月に25万の兵を率いて元を攻め始めました。翌年1月、朱元璋は金陵で皇帝を称し明朝を建国しました。その後、元の大都を占領するため大軍を派遣しました。

1368年7月28日。明の大軍が大都に来る前に、恵宗は奇皇后や後宮の女性たち皇子や皇孫、そして多くの官僚を連れて上都(現在の内モンゴル自治区)へ避難しました。さらに明軍が迫ったので東の応昌に逃れ再起をはかりました。

高麗への再度の攻撃計画と失敗

逃亡の途中、奇皇后は息子の愛猷識理達臘(アユルシリダラ)を唆し、納哈出(ナハチュ)に再び高麗を攻撃させ実家の復讐をさせようとしました。しかし、今回はアユルシリダラは母の要求に応じませんでした。

一方で、奇皇后の甥である奇轍(キ・チョル)の息子の奇賽因帖木児(キ・サイントムル)は、遼陽路と東寧府の方面から何度も高麗を悩ませました。

高麗は二度にわたって兵を派遣し、川を渡って奇賽因帖木児を捕らえようとしましたが成功しませんでした。

謎に包まれた奇皇后の死と最期

その後、元、明、高麗のいずれの歴史書にも奇皇后の消息に関する記録は見当たりません。奇皇后がその後どうなったのかは謎です。

奇皇后がいつどのようにして死んだのかは伝わっていません。1368年に捕虜になり1369年に死亡したという噂もありますが、はっきりとは分からないのです。

ドラマ「奇皇后」と史実の違いを徹底比較!

ドラマの奇皇后:正義感あふれるヒロイン

テレビドラマ「奇皇后」では元の皇后になっても高麗の民を心配する正義感あふれる女性として描かれました。

恵宗とのロマンスや、様々な困難を乗り越えていく姿は多くの視聴者を惹きつけましたね。

 

史実の奇皇后:権力欲と復讐に燃える女性

でも歴史上の奇皇后は高麗に残してきた家族を高麗王に殺害されたことで、高麗を憎みます。皇帝に高麗と戦をするようにけしかけたのは奇皇后なのです。権力欲が強く、第一皇后よりも贅沢をしていたとも言われます。ドラマとはかなり違います。

とはいえ、国に裏切られ異国に送られた奇皇后としてはそうでもしなければ生きていけない事情もあったのでしょうね。

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まとめ

奇皇后は高麗出身で元の皇后になった実在の人物です。ドラマ「奇皇后」は彼女の波乱に満ちた生涯を基にしていますが、史実とはかなり違います。

歴史書「元史」にもその名が残る史実の奇皇后は貢女として元へ渡り、宮女から第二皇后、そして異民族出身では初の第一皇后へと上り詰めました。その過程では恵宗からの寵愛を受けつつも、ダナシリ皇后との激しい対立や権力者バヤンの失脚といった多くの困難を乗り越えています。

しかし彼女の生涯は華やかなだけではありませんでした。故郷高麗の家族が殺害されたことへの復讐心や息子の皇位継承を巡る激しい権力闘争など。史実の奇皇后はより人間的で複雑な側面を持っていました。

元の衰退と明の建国という激動の時代を生き抜き、歴史の闇に消えた奇皇后の生涯はドラマ以上にドラマチックなのです。

 

参考文献

1)『元史』 巻一百十四列傳第一
2) 喜蕾『元代高麗貢女制度研究』、民族出版社、2003年、p.72—83。
3) 『高麗史』巻一百三十一列傳第四十四

 

 

 

 

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この記事を書いた人

歴史ブロガー・フミヤ

著者 自画像

京都在住。2017年から歴史ブログを運営し、これまでに1500本以上の記事を執筆。50本以上の中国歴史ドラマを視聴し、史実とドラマの違いを正史(『二十四史』『資治通鑑』など)に基づき初心者にもわかりやすく解説しています。

詳しい経歴や執筆方針は プロフィールをご覧ください。

運営者SNS: X(旧Twitter)

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