趙姫(ちょうき)は始皇帝の生母です。
出自はよくわかっていません。「趙」の国出身なので趙姫と呼ばれます。
戦乱の時代に一般人から王妃になり上がった人物なのでその経歴はユニークです。男性遍歴も多く人物歴史上はあまり評判のよくない趙姫ですが。はたして趙姫は本当に悪女だったのでしょうか?
ドラマ「コウラン伝」では李皓鑭(りこうらん)という名前で登場します。歴史上の趙姫は名前はもちろん姓もわかっていません。李皓鑭は架空の名前です。
史実の趙姫はどんな人物だったのか紹介します。
趙姫 の史実
プロフィール
通称:趙姫(ちょうき)生年月日:紀元前280年
没年月日:紀元前228年
家族
母:不明
夫:秦・荘襄王(そうじょうおう)
愛人:呂不韋(りょ ふい)
嫪毐(ろう あい)
子供:秦始皇帝(父:荘襄王)
趙姫は秦の始皇帝の生母。
日本では弥生時代になります。
始皇帝が生まれる直前。紀元前260年ごろの中国はこのように幾つもの国が争っている戦国時代でした。
趙姫は「趙」で生まれ「秦」の皇后になる人物です。
趙姫の生涯
おいたち
本名は不明です。
「趙」出身なので「趙姫」と呼ばれました。
「史記」によると「趙」の出身。両親は誰なのかわかっていません。
「邯鄲の歌姫」という記録と「趙の富豪の娘」の両方があるのでどちらが本当なのか、両方とも本当なのか違うのかわからないのです。
呂不韋の妾になる
いきさつはわかりませんが、趙の商人・呂不韋の妾になりました。趙姫は踊り子をしていて呂不韋の目にとまったようです。
趙姫と呂不韋は趙の都・邯鄲(かんたん)で暮らしていました。
そのころ。呂不韋は秦の王子・嬴異人(えい いじん)と親しくしていました。
嬴異人は秦の王子。母の地位が低く敵国の趙に人質として送られていました。呂不韋は秦の王子と親しくしていれば将来出世できると考えていたのです。
嬴異の妻になる
あるとき。嬴異人は舞姫をしていた趙姫を見て美しさに惹かれました。嬴異人は呂不韋に趙姫をぜひ妻にしたいと相談します。
呂不韋は腹はたちました。しかし自分の妾なのは隠していましたし、嬴異人に嫌われるわけにもいかず趙姫を差し出しました。
紀元前259年。趙姫は邯鄲で息子の嬴政(えい せい、後の始皇帝)を生みました。
紀元前257年。秦と趙の間で戦争が起こりました。嬴異人の父・昭襄王は嬴異人が人質にいるのをお構いなしに攻撃しました。
首都・邯鄲も戦場になります。すると趙の人質になっていた嬴異人の身が危険になったので、呂不韋は趙の役人に賄賂を渡して嬴異人を秦に逃しました。
しかし、趙姫と政を救出する時間はありませんでした。趙姫は嬴異人と生き別れになってしまい、富豪の家に匿われました。
この富豪が趙姫の実家ともいわれています。そのため趙姫は呂不韋の妾ではない。趙姫の実家と呂不韋が付き合いがあったので二人は知り合った、とも考えられます。
戦いは秦が勝ちました。
秦の王妃の時代
紀元前250年。嬴異人は秦の太子になりました。趙は趙姫と政を秦に送り届けました。趙姫と政は嬴異人と再会しました。
紀元前249年。嬴異人が秦の王に即位、荘襄王になりました。趙姫は王妃、政が太子になりました。
呂不韋は荘襄王の側近として仕えました。
紀元前247年。荘襄王が死亡。息子の嬴政が秦の王になりました。
太后になる
紀元前247年。嬴政はわずか13歳で秦王になりました。
趙姫は太后になり、幼い政のかわりに政治を行いました。宰相になった呂不韋が政の後見人になりました。
荘襄王の死後。趙姫と呂不韋は愛人関係になります。
ところが政が成長すると、呂不韋は趙姫との関係がばれるのを恐れるようになりました。
偽宦官の嫪毐(ろう あい)を寵愛
そこで嫪毐(ろう あい)を趙姫に紹介。嫪毐を宦官と偽って宮廷に入れました。趙姫は嫪毐を気に入って新しい愛人にしました。
趙姫は嫪毐との間に2人の子をもうけたともいわれます。趙姫の後ろ盾をえた嫪毐は次第に朝廷で大きな力を持つようになります。朝廷内で嫪毐の横暴に不満を持つ人々が政に訴えました。
政は嫪毐が宦官でないことを知りました。趙姫と不倫関係にあり。2人の間に生まれた子供を次の王にしようとしている。さらには呂不韋も関係している。と知らされました。
紀元前238年。先に動いたのは嫪毐でした。嫪毐は反乱を起こしました。政は軍を送って嫪毐と彼の一族を処刑。趙姫と嫪毐の子供も処刑しました。
趙姫は捕らえられ、雍城で幽閉されました。
晩年の趙姫
後に政と趙姫は和解。趙姫は都に戻りました。
紀元前228年。趙姫が死去。享年53。
紀元前221年。政は中国を統一。その後「皇帝」の称号を使い始めます。
そして母・趙姫に「帝太后」の称号を贈りました。
趙姫のウソホント
嬴政(始皇帝)は呂不韋の子?
司馬遷の書いた「史記」には嬴政は荘襄王の子ではなく、呂不韋の子だと書かれています。
趙姫が荘襄王(当時は嬴異人)の妻になったとき、すでに呂不韋の子を身ごもっていたというのです。
ところが荘襄王(嬴異人)の妻になる前に呂不韋の子を身ごもっていたら、妊娠期間が長すぎます。普通ではありえません。
また始皇帝は呂不韋を重臣としてしか扱わず、実の父とは考えていませんでした。
呂不韋と始皇帝を誹謗するための作り話の可能性が高いです。
趙姫は不道徳な女だったの?
趙姫は司馬遷の書いた「史記」ではかなり評判の悪いふしだらな女と紹介されています。
呂不韋の妾になり、荘襄王(嬴異人)の妻になり。その後、呂不韋と愛人にして、その後は、嫪毐を愛人にして2人の子をもうけたと書かれています。
嫪毐の子については本当かどうかよくわかっていません。2人の子を生みながら政に気づかれずに暮らすことができたのか?という問題もあります。
またこの時代は儒教が普及していません。女性の恋愛にも寛容だったといわれます。地位のある女性なら夫の死後、愛人を作っても問題ないとされます。
ところが「史記」を書いた司馬遷は漢の時代の人。孔子を崇拝する儒教の信者です。儒教の価値観で考える司馬遷にとって、奔放な趙姫はふしだらな女と思えたのでしょう。
愛人が息子と仲が悪くなって息子が愛人を処刑した。あるいは朝廷内に太后派と国王派の派閥があって国王派が勝った話が脚色されたのかもしれませんん。
いずれにしても必要以上に悪く描かれているようです。
史記は信用できない?
漢の役人である司馬遷は秦には厳しい人物です。というのも秦を滅ぼして建国したのが漢だから。滅ぼした国のことを良く書くはずがありません。とくに秦は始皇帝の死後すぐに滅びました。事実上・始皇帝一代で滅んだといってもいいくらいです。中国の歴史書では王朝の最後の皇帝には厳しい内容が多いです。「悪い皇帝がいたから悪いやつを倒して新しい国を作ったんだ」と正当化するからです。
司馬遷は儒教を信じていました。だから儒教を採用していない秦の評価も悪くなりがちです。儒教が普及したのは漢の時代の途中からです。
春秋戦国時代や秦の人々の価値観は漢より後の価値観とは違う、もっと自由奔放です。
中国の歴史書にあるから正しいとはいえないのです。
長い歴史の中で悪女とされてきた「趙姫」ですが最近は評価もかわりつあるようです。当時の習慣や世の中を考えれば。悪女ではなく、戦乱の世をたくましく生き抜いた女性だったのかもしれません。
ドラマ・コウラン伝では悪女でない趙姫の姿が描かれます。
ドラマの趙姫
秦始皇 2007年、中国 演:宋佳
麗姫と始皇帝 2017年、中国、演:陳依沙
大秦賦 2020年、中国 演:朱珠(チュウ・チュウ)
巴清傳奇 2020年、中国 演:姜宏波
コウラン伝 2019年、中国 演:呉謹言(ウー・ジンイエン)
役名は李皓鑭(りこうらん)
ドラマでは呂不韋は仲間でしたがやがて惹かれていくように。嬴異人と知り合ってからは嬴異人から好かれ。微妙な三角関係に。
皓鑭を演じる呉謹言(ウー・ジンイエン)さんは「瓔珞<エイラク>~紫禁城に燃ゆる逆襲の王妃~」で魏瓔珞を演じました。
相手役の呂不韋(りょふい)を演じる聶遠(ニエ・ユエン)さんは、「瓔珞<エイラク>」で乾隆帝を演じています。
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