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湖陽長公主 劉黄は 光武帝も逆らえないわがまま姉貴

後漢 5 漢

湖陽公主 劉黄(りゅう・おう)は後漢の初代皇帝 光武帝 劉秀の姉。

劉家の長女です。

弟の劉秀たち新朝に反乱をおこして後漢を建国しました。

劉黄は郷里にいた姉たちを都の洛陽に招きます。

そこで「湖陽公主」の称号を与えられた劉黄は王族として暮らすのですが。

いろいろと問題も起こしています。

有名な「糟糠の妻」のことわざの誕生にも関わっています。でも劉黄本人は「糟糠の妻」のモデルになった人ではありません。

史実の湖陽公主 劉黄(りゅう・おう)はどんな人物だったのか紹介します。

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劉黄の史実

プロフィール

姓 :劉(りゅう)氏
名称:黄(おう)

国:新→後漢
称号:湖陽公主

生年月日:不明
没年月日:不明

日本では弥生時代になります。

家族

父: 劉欽
母:樊嫻都弟:劉縯、劉仲、劉秀(光武帝)
妹:劉黄、劉伯姬夫: 胡珍

 

おいたち

劉家は前漢の第6代皇帝・景帝の子孫です。
皇位を引き継ぐ権利はなく、南陽郡に移住して地方豪族になっていました。

劉元の生年は不明。

荊州南陽郡蔡陽県(湖北省棗陽市)出身。

父は劉欽。
南頓の県令(知事)でした。

母は樊嫺都。

すぐ下の妹は劉元。
弟は順番に 劉縯、劉仲、劉秀。
一番下の妹は劉伯姫。

西暦3年に父・劉欽が死亡。

かつての皇帝の子孫とはいえ生活は裕福ではありません。劉黄は母を手伝い、弟や妹たちの面倒を見ました。

それをみかねた叔父・劉良に育てられました。

劉良は県令になってそれなりに裕福だったので劉黄は家事をしなくてすみました。

その後、弟たちとともに実家に戻り母と一緒に農業をして暮らしました。

劉黄は時期は不明ですが、胡珍と結婚しました。劉秀のもとで働き騎都尉(騎兵部隊を率いる隊長)にまでなった武将です。

地皇3年(22年)。弟の劉縯、劉秀たちが新野で打倒・王莽を目指して挙兵しました。

建武1年(25年)6月。弟の劉秀が光武帝として即位しました。

光武帝は南陽に使者を派遣。姉の劉黄を洛陽に呼び寄せました。このとき陰麗華も洛陽に呼ばれました。

劉黄には「湖陽公主」の称号が与えられました。「湖陽長公主」とも呼ばれます。

「糟糠(そうこう)の妻」の故事で引き立て役 

中国の歴史書「後漢書」にこのような記録があります。

建武2年(26年)2月。このころまでに夫の胡珍が死亡。

光武帝は夫が死亡した姉のために再婚相手を探したいと思いました。だれがいいのか湖陽公主に聞いてみると「宋弘(そう・こう)は、顔がご立派で徳があり並ぶものがいません」と言いました。光武帝は「わかりました、図ってみましょう」といいました。

宋弘とはこのとき大司空(監察・政策立案担当の大臣)になったばかりの重臣です。

光武帝は宋弘を呼び出しました。ついたての裏に湖陽公主を隠れさせ、光武帝と宋弘の会話を聞かせました。

光武帝は宋弘にこう言いいました。
「ことわざには『高い地位になったら、つきあう相手は地位にふさわしい者にしなさい。富裕になったら、妻はその財力にふさわしい者にしなさい』とあるのだが、人の心とはそういうものなのか?」

宋弘はこう答えました。
「私は『貧しく・地位も低いときに知り合った友は忘れてはいけない。糟や糠を食べて苦労をともにした妻は家から追い出してはいけない』と聞いております」

(宋弘が言ったという元の言葉は「臣聞貧賤之知不可忘 糟糠之妻不下堂」)

それを聞いた光武帝は姉に「これは見込みがありませんな」と言いました。

光武帝は宋弘が結婚していることは知っています。かといって姉の希望を断ることもできません。皇帝なら断ればいいのですが。湖陽公主に諦めさせるためこのような場を設けたのでしょう。

このときのやり取りが「糟糠の妻は堂より下さず」の故事の語源になってます。

糟(酒かす)や糠(ぬか)を食べて苦労を一緒にした妻は裕福になっても疎かにしてはいけない。という意味です。

現代の日本では「糟糠の妻」のところだけとって「苦楽を共にした妻」とか「苦しいときに一緒に耐えてくれた妻」という意味で使われることが多いです。

「地位が上がったり裕福になっても苦労をかけた妻は疎かにしてはいけない」という部分が抜けてる人が多いようです。ことわざが好きな日本人男性も「糟糠の妻」の意味を知ってる人はあまりいないんじゃないでしょうか?

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使用人が殺人を働き光武帝が姉をかばう

湖陽公主の使用人が殺人犯になる

建武19年(43年)閏正月。董宣(とう・せん)という役人が洛陽の治安維持を担当していたころ。

湖陽公主の家僕(使用人)が白昼堂々と殺人を働きました。使用人は湖陽公主の屋敷に隠れてしまい、役人が捕まえることができません。

湖陽公主も使用人を役人に差し出そうとはしません。

湖陽公主は馬車に乗り外出することになりました。その使用人も馬車に乗せました。

外で見張っていた董宣は湖陽公主の馬車を止めました。そして刀を抜き大声で湖陽公主に聞こえるように湖陽公主のの罪を言い、使用人を引きずり出して処刑しました。

湖陽公主はすぐに宮殿に行き、光武帝に訴えました。

犯罪者を処分した董宣が訴えられる

姉の話を聞いた光武帝は激怒しました。そして董宣を呼び出すと「皆のもの、この者を棒で殴り殺せ」とわめきました。

董宣は土下座して「死ぬ前に言わせてください」というと。

光武帝は「何だ?」と答えます。

董宣は「陛下は漢帝国を再興しました。奴隷が庶民を殺するのを放置して、どうやって天下を治めるというのですか。杖に打たれて死ぬのを待つ必要はありません、どうか自害させてください」と言って柱に頭をぶつけました。さすがにそれだけでは董宣は死ぬことはできず頭から血を流しています。

董宣に湖陽公主への謝罪を強制する光武帝

光武帝は宦官に董宣を引きずらせて湖陽公主の前に連れ出しました。そして姉に謝罪するように言いました。董宣は断わりました。

光武帝は若い宦官に董宣の頭を押さえつけさせて、頭を下げようとします。でも董宣は両手で地面を突っ張って頭を下げるのを抵抗しました。

それを見た湖陽公主は「文叔(光武帝の本名、この名を呼べるのは親か目上の人だけ)や、お前も殺人犯を屋敷に匿っていたがたかが無役(朝廷の役職を持っていない人)のお前に役人も手が出せなんだ。今や皇帝になったのに役人を従わせることもできんのか?」と言いました。

(劉秀たちが挙兵する前。劉家が雇っていた食客(傭兵)が人を殺したことがあり、劉秀は彼らを匿ったことがありました。その後、劉秀は役人を恐れて移住。やがて食客に「挙兵すべき」と言われて劉秀は挙兵します)

光武帝は笑いながら「確かに皇帝は百姓とは違いますからな」と言って董宣に「勅命」を出しました。

真面目な董宣が勅命に従うと、光武帝は褒美として董宣に三十万銭の金を与えました。

董宣の評判が上がる

外に出た董宣はもらった三十万銭をすべてばらまいて人々に与えました。

その話を聞いた人々は董宣を「虎だ」と恐れ、治安が良くなったということです。

上のやり取りは「後漢書」の「循吏列伝」という有能な役人を紹介した記録にあるものです。

それ以後、湖陽公主がどうなったのかはわかりません。

金国皇帝 世宗・完顔烏禄の感想

後の時代。1188年。

金国の第5代皇帝 世宗・完顔烏禄(ワンヤン・ウル)は「後漢書」を読んで臣下に感想を語りました。金世宗・完顔烏禄は光武帝のことは好意的に受け止めていましたが董宣の件を臣下から尋ねられると「董宣を公主に謝罪させたのは間違ってる」と言いました。

それはそうですよね。

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引き立て役の記録しかない湖陽公主

湖陽公主 劉黄本人の記録は少ないのですが。他の人物の記録の中にところどころに出てきます。どれも湖陽公主のわがままとそれをかばう光武帝。誠実に対応しようとする部下の話です。

そのおかげで湖陽公主は悪い話ばかり集まってしまいました。でも後漢の王宮ではこのようなやり取りがあったのでしょう。

身内に甘い光武帝のだらしなさも目立ちます。

光武帝は後漢を再興した人物ですが。皇帝になってからは私情優先であまりよい皇帝とはいえない部分も多いです。後漢はけっこうグダグダな国で、だから三国志の時代になってしまうのですが。それも仕方ないなという感じです。

 

テレビドラマ

秀麗伝〜美しき賢后と帝の紡ぐ愛〜 2016年、中国 演:鄭宜姜

 

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